教育福島0050号(1980年(S55)04月)-030page
随想
根性と責任感
鈴木正恵
四年前のことである。先輩である保原町公民館長の佐藤先生から電話があり、町内五つの幼稚園で母親を対象に家庭教育学級を開くことになったので講師をお願いする、担当する主題は、「現代っ子に根性や責任感を身につけさせるにはどうすればよいか」ということで、一時間の講話と三十分の話し合いを持つ、そしてこの主題にはお前が最も適任であるという。まことに恐れ入ってしまった。
退職後、今の仕事をさせていただきながら、時おりボランティアのつもりで婦人学級や母と子の水泳教室、スケー卜教室などのお手伝いをしていたがひとの前で格式ばったお話をするということなどは初めてのことであった。
私は人間の生き方の心構えとして、「言行一致」ということを考え、生活信条の一つともしてきたが、ひとの前で話をする、しかも根性や責任感を養うというようなとてつもないことについて考えを述べることなど、顧みて内心忸怩(じくじ)たるものを禁じ得なかった。
我が国には「遠くの神様はありがたい」という考え方がある。中学三年のPTAがバスを連ねて遠くの文珠様にお参りに出かけたり、○○学級、○○研修会などでは遠くから権威者といわれるかたを講師にお願いして、話を聞くというようなことなどがよくみられる。それはそれなりに意義のあることであろうが、幼稚園の子供たちのことで私は何を話したらよいのだろうか。なんのカルテも持たない者の話は、とかく一般的、抽象的に流れるのがおちである。園児一人一人のカルテを持っているのは担任の先生であり園長である。そういうかたの話こそ具体的で役に立つのだが、遠くの神様らしい私の話などはどんな効果があるのだろうか。たまには身近な話から離れて一般論を聞くことも、自分の考えややっていることを広い視野から反省してみる機会になるのだろうと、自分なりに心にきめてとにかく引き受けることにした。以来四年「根性と責任感を身につける」という同じ主題でお母さんがたの前に立たされている。まことに根性のいることである。自分ながら厚かましいと思うとともに、館長さんのご期待にこたえているのだろうかと反省もさせられている。
四年目になって、私が具体例を交えて話した内容は要約すると次のようなことで、まことにありふれたあたりまえのことである。
一、このようにすばらしい自然環境と学級の園児の数の少ない恵まれた条件の中で、教育の効果があがらないなどと言われたら、それは先生と家庭の責任であるといっても過言でないこと。
二、根性や責任感を身につけるには、未分化の幼児時代では特別にそれだけをとりあげて対処することは無理で、全生活の中で考えていくことが大事であること。
三、幼稚園は計画的に教育を行うところであるから、根性や責任感を身につけることについては十分に配慮していること。
四、そうすると問題はどうしても家庭ということになる。望ましい家庭像について私はこんなふうに考える。
(一)結果も大切だが、それと同時にいやそれ以上にそれに至る過程を大事にする生活態度。その中にこそ根性や責任感を養うチャンスは数多くある。
(二)何事も出来るだけ自分の力でひとりでさせる。そのための条件づくりは発達段階に応じて親が考える。
(三)ひとりで取り組んでいくためには、だれがいてもいなくても、やってよいことと悪いことのけじめをしっかりと心に刻みこませる。宗教的な考え方、家庭のきまりを守ることなどが手がかりになる。
(四)世の中には金より大事なものがいっぱいある。それは根性や責任感などにかかわりが大きい。
こんなことを考え、ささやかでもよい家族みんなで実践している家庭。しかし人間の弱さは恐らく失敗の連続であろう。そんなときの救いはお母さんの笑顔とユーモアである、くじけずがんばってほしいと結ぶ。いやはや汗顔の至り。でも「先生また来てくださいね」などと言われると不思議に責任を感ずるからおかしなものである。
(福島県市町村教育委員会連絡協議会事務長)