教育福島0050号(1980年(S55)04月)-034page
わたしの研究実践
「歎異抄・往生の要」の指導
安積高等学校御舘分校教諭
青山和憲
一、はじめに
私が本校に赴任したのは、昭和五十三年四月、大学の門を出てまだ間もない春であった。新任者の緊張と不安と希望とが、私をいささか興奮させていた。郡山市内から約十五キロ、山あいの小さな街道沿いの部落に、私の最初の教員生活を飾るべき校舎があった。それはいかにも古い木造で、施設設備も整っていないように思われ、少々私を落胆させる趣きがあった。しかし問題は中味だ、生き生きした生徒がおり意欲に富んだ勉強がし合えればいい。私はそう思い、期待をこめて授業にのぞんだのである。
あの時の私の希望と期待は、必ずしも十分に満たされたとはいえないが、この二年間の夢中な経験の中で、どうにか生徒たちとともに考え学ぶ授業ができるようになったと思う。以下、その一端を御報告する。
二、本校生の実態と古典の指導
本校生の学力は高いとはいえない。国語科の場合、当用漢字の読み書きを含め、基礎学力の不足が目立つ。読書の習慣も身についていない者が多く、小・中学生の期間を通じて読書量はきわめて少ないようである。
学習意欲も乏しく、特に成績下位者にその傾向が著しい。もっとも、中には、私自身の高校時代のありようと比べると恥ずかしくなるほど、熱心に質問し、ノートをまとめる生徒も多いがテストのためだけではないかと思える者もある。しかしともかく勉強してくれるのは嬉しいことだ。
本校では、古典1)乙を三年間履修する。各学年とも週二時間のため、一・二学期は古文、三学期を漢文に充てている。その間、古文、漢文に対する親しみが薄れることを防ぐため、機会あるごとに関連教材等に含める形で漢詩、和歌等に触れるようにしている。
一つ一つの教材をじっくり読みとるようにしているため、進度は遅い。例えば「新古今和歌集」学習の際には、一時限に一首ないし二首というペースであった。したがって年間に学習できる教材の数は制限される。教材の選定に当たっては、なるべく生徒の興味関心に添ったものを選ぶようにするとともに、生徒の興味を呼びおこすような指導過程の工夫をしている。
三、指導の実際
1、教材「歎異抄・往生の要」(明治書院『古典1)乙』新修版)
2、指導対象 三年四十八名(男二十名、女二十八名)
考査結果にみる学力は他学年に比しやや高い程度だが、知識欲が旺盛で、授業時の態度など真剣であるといって差し支えないと思う。各種学校行事等でも校内で最も活発な学年である。特に指名しなくとも自主的に発言する雰囲気があり、発問に対する反応は強い。どちらかというと授業の進めやすいクラスである。
3、本教材学習のねらい
「歎異抄」を含む中世法語、語録群は、日本文化史上まれな高度の思索性をそなえた古典である。それだけにかなり程度の高い教材であるがその提示する課題の多くは、今日に生きるわれわれにとってもなお新しい課題であると思う。したがって、むしろ生徒の若々しい現代的感覚に訴える力があるのではないか。本教材にいう「浄土・地獄」とは、決して来世のみを示す語ではあるまい。
歎異抄の中から私自身が読みとった現世における地獄と浄土のありようを、ぜひ生徒にも見てほしいというのが、この教材を取り上げるに当たっての私の痛切な願いであった。
4、指導過程
大筋は、
音読(範読、指名読、一斉読)→語い・文法の検討(発問・指名)→口語訳→内容検討(発問、指名・教師の補足説明)
という、オーソドックスな過程をたどることにした。
文法の検討には、すでに配布して