教育福島0050号(1980年(S55)04月)-035page

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ある助動詞活用表等を用い「徒然草」学習の際習得した事項を確かめながら、正確な口語訳へ導くようにした。生徒は私の誘導によく追従し生硬だが、正しい口語訳を、自らの力で作っていった。

5、発問の工夫による内容探究

本教材を扱うに当たって、私が最も意を用いたのは、親鸞の思索の深さを、どのようにして生徒のものにすることができるか、ということであった。その一つの道として、私は適切な発問(課題)を積み重ねていくことによって、生徒自身の思索を深めさせうるのではないかと考えた。

以下に掲げるのは、第五時限目の指導の実際である。

(教材)

「善人なほもちて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世の人常にいはく、『悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや』と。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり」

(発問一)われわれは、いかなる人を善人といい悪人と呼ぶのか。善いことをする人が善人、悪いことをする人が悪人である、という発言が即座に返ってくる。

(発問二)完ぺきな「善人」は存在するか。

否定的な発言が大方である。生徒の経験した範囲内でも、彼らの目に完ぺきな善人と映る人物は存在しないようである。人は生きていく上で全く悪事を犯さないというわけにはいかないらしい。

ここで、小乗仏教の戒律では、害虫害獣ですら、これを殺すのは不殺生成にふれる罪とされていることを設明し更に宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」を想起させた。素朴で善良な小十郎でさえ、殺生という大罪を犯さずには生きていけなかった話である。

(発問三)悪事をなす人々のすべてが自分を悪人であると考えているか。

発問二と同様、ほぼ否定的な発言が返ってくる。

(発問四)なぜ彼らは自分を悪人だと思わないのか。

二、三名の生徒を指名して考えを述べさせてみる。言いまわしはいずれも漠然としていたが、どうやら、「自覚の有無」ということに気づいてきている。そこで次の板書をする。

 

人聞(悪事をなす)

○自分の悪を自覚する人=(a)

○自分の悪を自覚せぬ人=(b)

 

(発問五)板書の空欄(a)・(b)に「善人」「悪人」のどちらかを入れよ。

大方はこの段階で、歎異抄が問題としているのは悪行をなすかなさぬかではなく、自らの悪を謙虚に認める自省心の有無であることに気がついたようである。空欄補入はほとんど抵抗なく正解に達した。すなわち、教師の意図する目標、歎異抄における「悪人」の概念の理解に到達できたのである。

以上、教材にいう「善人」「悪人」が、われわれが通常考える善人悪人と同じものでないことに気づかせるための指導過程の一端である。この指導によって、より苦しむのは「善人」「悪人」のいずれであるのかも容易に納得できたと思われる。また教材の次段に出てくる「弥陀の本願の対象は善人ではなく悪人である。」という命題にも、比較的抵抗なく入っていけたことを付け加えておく。

 

四、指導を終えて

 

例年冬季休業後に行われる校内読書感想文コンクールの課題図書に、倉田百三著「出家とその弟子」を含めたところ、十余名の生徒がこれを読了し、それなりに自分の感想を述べてくれたのは、意外でもあり嬉しくもあった。

本校の生徒には難し過ぎると思い、課題図書に含めることをためらったのであるが、杞憂だったようである。

感想文の文章はラフで、結構も整っているとはいいがたいものが多いが、よけいな文節に気を遣わない分だけ、彼らの主張は直截(せつ)であり、その作品に対する関心の純度は高いとも思う。

私が本教材に加えた解釈とは正反対の解釈を試みた生徒もいた。

「世の中に悪人なんていない。みんないい人ばかりなんだ。弱いから悪に負けるんだ。だから強くなろうよ」というフレーズを読んで私は胸をつかれる思いだった。私はたしかに歎異抄の思想の核ともいうべき部分を教えた。しかし、その思想にどのように対するべきであるかという事についてはほとんど何も教えなかった。この生徒の感想文には私の解釈に欠けている、主体的な教材との対峙があったと思う。私は卒業していく生徒に最後に教えられたのである。

全校三学級、全生徒数百三十四名。二年間一緒に過ごせば、彼らを他人として見ることはできない。

欲目かも知れない。しかし、彼らの置かれている状況を考えれば、乏しい設備、粗末な施設の中で、決して自棄に陥ることなく、よく励み、よく楽しみ、よく耐えてきた彼らこそ、幾多の欠点はあるにせよ、まさにすばらしい生徒たちではないかと思わずにはいられないのである。

 

 

 


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