教育福島0053号(1980年(S55)08月)-045page

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温泉図書館の話

 

県立図書館司書

菅野俊之

 

図書館コーナー

 

図書館コーナー

 

温泉に浸りながら、雨に濡れて一際鮮かな新緑を眺めていると、えも言われない。ほんとうにみち足りた思いがする。…私は雨に温泉宿に籠っている気分をしみじみ味わう。人によっては退屈を感じることだろう。しかし私は、その退屈の中に何かがあるように思う。(田中冬二「妻科の家」)

 

あわただしい日常の生活を離れて、たまにはゆっくりと山のひなびた温泉でぼんやりと、木立の緑でも見ながら無為のままに過すのもいいものです。

ところで、湿泉客は退屈で困っているだろうから本を持って行って貸し出しをしたら、さぞかし喜ばれるだろうと発案したおせっかいな−いえいえ、奉仕精神に満ち満ちた図書館員がその昔、県立図書館にいました。その名を阿部泰◆(たいあん)氏、後に館長になったかたです。「全国最初の試み?湿泉図書館の開設」と大見だしで、昭和六年七月十九日付の「福島民報」新聞は次のように伝えています。

「県立図書館の阿部司書は山の温泉に湯治している客人を舞聊(ぶりょう)から慰め、更に読書趣味に導くために夏期出張の『温泉図書館』を計画し、まづその第一回の試みとして吾妻山の高湯温泉にこれを設けることになった。温泉の一角にある分教場主任深沢賢悟氏を主任として分教場の一室を開放し、七月十八日から八月三十一日まで開設して、趣味、娯楽、産業、文芸等の本をたくさん備えつけた。恐らく全国の図書館中で初めての試みでその効果は期待すべきものがある。幸いに目的に合い風紀改善等に資する所があれば明年は大々的に計画する方針で、県下各地の温泉やあるいは海水浴場その他の避暑地にも設置する予定であるという」

さすがに海水浴場までは本を持って行かなかったようですが、翌年からは"山の温泉場における浴客に清新な娯楽と読書の趣味を供する″とのキャッチ・フレーズを揚げ、夏期出張図書館と名うって高湯、土湯、岳、甲子、熱塩の温泉地に仕出しの出前ならぬ本の出前を届けて、大いに話題となったといいます。昭和六年より十四年までの夏期に温泉図書館は継続して開設されましたが、第二次大戦とともに中止となりました。昭和二十五年に再開、猪苗代町の中ノ沢温泉とともに、この年にはいよいよ当初の構想にあった海水浴場図書館まで相馬の原釜海水浴場に実現させたのですから驚きます。備え付け図書は全て新規購入された五百七十五冊と雑誌十三冊が充てられ、七月二十日から八月二十日までのうち二十七日間開館、総利用者数は二千四百四十八人、一日平均九十一人と記録されていますから、当時としては大盛況といってよいでしょう。中ノ沢温泉図書館の印象について、当時の県立図書館職員原和子氏は次のような手記を残しています。

「高原の温泉郷も結局は山の中の一寒村に過ぎないので、美しい絵本やおもしろいお話の本などに恵まれる機会の少ない地元ゆえ、中ノ沢の子供たちが毎朝開館を待ちかねて門の前に集まっていたり、中には素裸の体にこれもちゃんちゃんこだけの赤ちゃんを背負って、体をゆすりながら机の上にひろげた本を貧るように読んでいる…驚くばかりの読書欲をもって、次々に借り出しては読破してゆく若い人たち、一寸の暇を見つけては読みに来たり借りに来たりする商人風の人々や家庭の主婦…」

自動車文庫あづま号の運行に伴って昭和二十九年に温泉図書館は姿を消すことになりましたが、戦前の温泉図書館の趣旨としては軍国主義下における矯風、教導的な色彩の一面もあったような印象を抱かせ、資料不足でその歴史的意義の評価はなかなか困難です。しかしながら"いつでも、どこでも、だれにでも"をサービスの理想とし病院、老人ホーム、果ては刑務所にまで出張して本を貸し出す現代図書館活動の理念と共通する奉仕精神の先駆性を温泉図書館の発想の中に見い出すことができるように思われてなりません。

県民の待望する新しい県立図書館建設に向かって胎動しつつある現在ですが、われわれ図書館員も時にはのんびりと温泉の湯煙りの中で、先人の図書館活動をしのび、現代に対応した新しい図書館奉仕のありようを熟考してみることも必要ではないでしょうか。

温泉(ゆ)を出でて秋風狭き巷(ちまた)かな 東洋城

 

 

 


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