教育福島0055号(1980年(S55)10月)-028page

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随想

保育雑感

 

村山昭子

 

村山昭子

 

“ガキ大将はなぜいない?”

「園長先生おはよう。早く外に出て遊ぼうよ」元気な呼び声で、今日一日の活動が始まるのが常である。事務に追われて子供たちと遊べない朝は、なんとなく心が重い。早朝から、はだしで元気にとびはねている子供たちと一緒に遊べるのは、専任園長の特権かもしれない。いわゆる自由遊びが、子供たちにとっては最良の時間のようである。いつも遊び相手に私を誘いに来るA君も入園当初から乱暴ばかりして、友達から仲間はずれにされている。要求することがすべて満たされる過保護な育てかたをされてきたため、友達関係が持てないでいる子。今年は特に、そんな子が多数みられるようである。それにしても、どうしてわんぱくな子が少なくなってきたのだろうか。どの子も“やさしい”し“おとなしい”良い子ばかりといえるようだ。遊び方を知らない子、砂遊びは汚れるからといやがる子、部屋の中でぼんやりとすわっている無気力な子。入園当初から手のつけられないあばれん坊には、めったにお目にかかれなくなってきた。あばれん坊のガキ大将を、特に礼賛しようという気はないが、いささか寂しい感じがしないでもない。生来あばれん坊で、発展的・積極的な気質の子供がいないはずはないのだが、家庭教育が徹底しすぎている。こじんまりとまとまった、おりこうさんな子供になってしまっているのではないだろうか。

保護者会でも、ききわけのいい、おとなしい子の育成をめざした、標準的な育児法については話題になるが、独創的な家庭教育についてはあまり紹介されないようである。「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」この言葉に共鳴を覚える。バイタリティに欠ける現代の子供たちをみていると、今も昔も変わらない日常の家庭のしつけを、もっと真剣に考え、もう一度見直してみる必要があるように思う。

“心身障害児教育”

この春卒園した精薄児M子ちゃんの母親が来園した。八月からやっと施設入所が許可になったことの報告であった。入園当初は、ほとんど会話もできなかったM子ちゃんが、ある日、スーパーで遠くから私の姿をみつけ、「園長せんせい」ととんで来てくれた。その子がやっと障害児施設に入所できると聞きほっとした。最近、心障児教育は重視されてきてはいるが、まだ集団の中に入れさえすればなんとかなるという風潮があって、肝心の子供の障害の状況や特性を無視している場合が多いような気がする。もちろん、普通保育によって、健常児も障害児もプラスになる要素はたくさんあるが、その中には種々の問題を含んでいる。心障児を毎年数人扱ってみると、その子にマイナスになるような障害児保育だけは避けなければならないと常々痛感している。

できることなら環境、設備の十分な心障児専門の幼児教育施設をたくさんほしいものである。

“幼児教育”

「子供のために生きよう」(フレーベル)「子供を生かそう」(エレン・ケイ)

どちらも私は貴重な言葉として心にとどめている。私も子供が好きで、かわいくてしかたがないが、子供が好きでかわいいだけでは、園長は勤まらない。自己創造や生きがいを幼児なりに味わわせ、また幼児の要求するものを正しく与えてあげるのが保育者であり園長ではないだろうか。幼児教育は無限であるが、人と人とのふれあいを通じて、子供一人一人の個性に合わせ、与え、引き出しながらはぐくんでゆくものではないかと思っているのだが。

(須賀川市立和田幼稚園長)

 

はだしでどろたあそび

 

はだしでどろたあそび

 

 

 


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