教育福島0055号(1980年(S55)10月)-030page
随想
パロディのはびこる土壌
小川琢士
帰りの学活終了後、「からすの勝手でしょう」という言葉を耳にした。五月ごろであった。「私の勝手だ」というかわりに使ったのだから生徒間ではかなり流布しているにちがいない。その生徒に事情を聞いてみた。童謡のパロディふうに「烏なぜ鳴くの。烏の勝手でしょう」と、意表をつくおちをつけて歌うのが流行だということがわかった。
私はその時、軽いショックを受けた。この驚きはどこから起きたのか。面白半分に、興味本位につくった歌だとは思ったが、教育は一層困難になることを感じた。童謡が持っているいい意味での日本的な想像のパターンをこわそうとしている。自分の恣意的な心情を安易に正当化するために日本の童謡をゆがめている。更に、想像力を支えている愛情を拒否することにもなっている。そんなふうな直観があったのである。この判断には多分に性急な面もあるとは思うが、一時的な遊びだと楽観ばかりもしていられない。これは現代の中学生にみられる自己本位で、短絡的な心情を増幅している言葉ではないか。友達の立場になって考えてやろうとする行為を切り捨てた発想である。勿論、柔軟な感受性を持つ生徒も多いが、このようなパロディがはびこる土壌から、次の世代を担うに足りる青少年が育つとは考えられない。
パロディを恐れるのではない。パロディによって純粋な想像力が汚されたり、芽を摘まれた結果、しらけの世代をつくりだすことを案じるのである。パロディでやゆする態度から生まれ育つものはたかが知れている。パロディによって破滅していく生徒の可能性は限りもなく大きい。パロディはまともな行為、本質的な思考を停止させ、しらけの心情をつくりだす。国語の授業で、まともなもの、堀りさげていけば本質に迫っていく本物について、論説文や古典的な文学作品を通して考えさせる努力をしなければと思う。
もう一つ、古い歌をうたい、テレビのコマーシャルを知らない教師を、もう古いと断言する中学生の傾向についてである。「新しい」といわれる教師になればいいという解決のし方ではなく、「古い教師」と、生徒側が心情的に決めつけたとき、教師の指導力に微妙なマイナスの変容が生じてくることを案じるのである。生徒を指導し、説得できる力量を持続するための努力が必要だと思う。古い歌を大切にし、テレビやラジオから流れるコマーシャルを知らないことが、古い教師の条件でないことを了解させる手だてが大切である。情報公害をよく理解させることである。現代、流行している歌には年配者の作詞、作曲になるものがかなりある。年配者が努力してつくった歌が、多くの若者にうたわれている事実もわかってもらう必要がある。若者と年配者、高齢者のつながり、連帯の姿を知ってもらわなければとも思う。そういう努力をしないで、中学生の新しがることを何でも知って話を合わせていくことに執着すれば、しらけの世代をつくることに加担していくことになるだろう。広い意味での日本の伝統を大切にしていく努力の中から感動が生まれ、想像力が働き、充足感がわいてくる。
現代の生徒は「かっこよさ」を大切にする。「かっこよさ」のための「かっこよさ」は、しらけの心情と表裏をなした行為である。かっこよければ悪いことでも平気でやる可能性を事前に摘んでやること。教室での生徒の言動をしっかり見つめて、適切な指導をしていくことの大切さをしみじみと考えるこのごろである。
(白河市立白河第二中学校教諭)
この子に感動を