教育福島0055号(1980年(S55)10月)-032page

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随想

手帳

 

星輝雄

 

星輝雄

 

八月二十四日(日)中野竹子殉難碑前慰霊祭九時三十分、門田町町民運動会八時半、一箕町町民運動会九時、大戸町町民運動会九時と手帳に記されている。前もって打ち合わせのとおり運動会関係には課長、公民館長などに代行を依頼して慰霊祭に出席する。

定刻に祭礼行事が始まる。顕彰会会長は元中学校長である。氏は式辞で会津戊辰戦争に中野竹子を隊長とする娘子軍が西軍と交戦し、百十二年前の今日この地で戦死したことを述べ、毎日曜日にNHKが「獅子の時代」で会津士魂を全国に放映していることを女史に語りかけるような口調で報告されていた。女史の辞世の句は「武士の猛き心にくらぶれば、数に入らぬ我が身ながらも」であった。

次いで女史を称える奉吟が吟詠三団体によって行われ、市長の追悼のことばがあり、参列者代表がそれぞれ焼香したあと、地元子供会の児童による娘子軍の踊りと、地元保存会による彼岸獅子舞が奉納された。

参列者は市長をはじめ地元県議、市議、教育関係者、地元顕彰会会員など約百五十名が出席していた。今この地は芝がきれいにはられ、榛の木の並木と数本の桜があり、ふだんは子供たちのかっこうな遊び場となっており、昔をしのぶおもかげはない。

会津には戊辰戦争にかかわるこの種の行事が、春秋の自虎隊士を弔う墓前祭をはじめ、西軍の慰霊祭も含め二十に近い。

これらを教育とどう結びつけるか、考え方はいろいろあろうが、その純粋な心根は、時代が変わっても学ぶべき中味ではなかろうか。

終了後(十一時半)帰宅すると家内が二階で押入れの整理をしていた。テーブルの上にのっていた幾冊かの本やアルバムのうち、なにげなく手近かなアルバムを手にすると前任校の卒業記念アルバムであった。一ページに校舎全景と校旗、そして二人の校長の顔写真がのっていた。現職に就任後は手帳にのっていたる行動日程に従って忙しく毎日をおくってきたが、はや一年近くにもなってしまった。この間いったい何をしてきただろうか。無我夢中の毎日であり、ゆとりのある気のしずまる日が幾日あっただろうか…。

最初の議会で、雰囲気にのまれ何を答弁したのか、市長の助け舟でおさめてもらったことなど恥しい限りである。校長の立場からは、教育委員会のしごとについて、ごく一部分しかみていなかったわけである。

市町村の教育行政は、範囲も広く内容も複雑多様である。目の前の課題も山積している。老朽校舎の改築、用地の取得、通学区域の再検討、公民館の建設、文化行政のあり方、埋蔵文化財の調査保護対策、スポーツ体育施設の改修、学校施設の開放、学校給食の改善、父母負担の問題など、いずれも緊急にして重要な事ばかりである。

幸い教育委員のかたがたや、教育次長を中心としたスタッフに助けられ市長をはじめ長部局の御理解を得、さらには先輩諸兄の激励をうけ、ようやくそれぞれの課題が前進をみ、道が開けたような感じの今日このごろである。

行政とは、むずかしいものである。それぞれの考え方や意見をふまえ、調和を図りながら解決していかなければならない。また時間と金のかかるものでもある。八十年代は「教育の時代」などといわれているが、七十年代なくして八十年代はありえない。それには当然、連続があるが、同時に非連続ないしつ飛躍もあるにちがいない。当面の課題解決は当然としながらも、当面の問題にのみとらわれず、二十年三十年先きを見とおして仕事を進めることが大切なことであり、責任あるもののとるべき姿勢と考える。

八月二十五日(月)九月議会議運十時、庁議一時市長室、八月二十六日(火)十月人事ヒアリング九時公舎、蕨市教委行政調査来庁十一時、市文化団体懇談会七時文化センターなどつぎつぎと手帳に記入されている。その間に来客の応対や各課からの報告や連絡事項、打ち合わせなどが飛びこんでくるのであろう。九月も市議会定例会や機構改革に伴う庁内人事、会津自虎祭りなど忙しくなりそうである。

とにもかくにも、誠意と公正を旨とし、市民の要請と信頼にこたえるべく仕事に取り組んでいこう。

(会津若松市教育委員会教育長)

 

 

 


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