教育福島0056号(1980年(S55)11月)-025page

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随想

告辞

田村碩信

 

ものであることに気がつき、負担ともいえるほどにのしかかってくるのである。

 

五十二年一月に教育長に就任し、学年末を四度経験した。学年末には卒業式があり、卒業式には「告辞」というものがある。就任前にも卒業式に出席することがあったが、この告辞なるものはそれほど意識にのぼるものではなかった。ところが、自らやる立場になってみると、これが思いのほか大きなものであることに気がつき、負担ともいえるほどにのしかかってくるのである。

公民館での社会教育の経験はあっても、小・中学校での経験がない私にとっては、標準をどの辺におくべきかで迷ってしまった。殊に、小学校は困ってしまう。幼稚園となると、もうお手あげである。

さて、「教育福島」の原稿執筆依頼には「文体は常体を原則とし、…」との留意点が示してある。この常体という熟語が私にはなじみでないので、座右の辞典をあたってみると「いつもの決まったありさま。正常な状態」という解釈がある。自分の常体が相手の常体と一致するならいいのだが、小・中学生相手の場合はどうなのだろうか。校長式辞が卒業式の中心であるけれども、教育長告辞は何か気のきいたことを言わねばなるまい。子供だけでなく保護者、来賓、そして教職員の存在も意識にのぼってくると、かっこいいことをしゃべろうなどとがらにもなく見栄の虫がのさばってくる。おこがましくも、かつて東大の卒業式で、南原、矢内原総長などの行った式辞が、当時の社会評論としてもてはやされ、流行語や警句を生み出したが、その小型版をやってみようかなど生意気な気が起きてくるものの、乏しい素養ではそもそも無理であることにすぐ気がついた。殊に小学校の場合は、小学生の常体を思うと到底おぼつかない。

せめて中学生ぐらいはと思い悩んだあげく、最初の五十二年三月には、公民館長室から、永年毎日眺めていた中学校の通学路の坂道を往復する生徒の姿に想いを走らせ「坂」という題を選んだ。卒業後の人生で、坂を登り、下った時のことを想いおこし、苦難に出逢った時は不屈の闘志を燃やし、楽しい安穏な生活に出会った時には、むしろ緊張感を強めてほしいという内容にした。

二度目には、中学校創立三十周年の記念の年に因み「歴史」と題し、“卒業の日”を“人生の歴史の日”として意義づけ、義務教育の生活から、自らの希望と選択で組み立てて行く生活への第一歩の日として卒業生自身の歴史を築いてほしいという内容にした。

三度目には、その年の学校祭のテーマ「未来に賭けて」をそのまま頂載し未来、将来に向かって全精力を傾注し自らの進路を切り開いていく決意を訴えた。

四度目の今春は、卒業生が三年生になってから、同級生の一人を火災で失った不幸な事故から、死の悲しさ、怖ろしさ、そして、生命の尊さ、生きていることのすばらしさを説き、生きていることのすばらしさを本当に味わうためには、相応の努力が必要であり、卒業後はその努力を続けることを訴える内容で「生きる」と題した。

四回とも、果たして何人の卒業生が私の言わんとしたことを理解してくれ、心に留めてくれたものであろうかと自省し、恩師と後輩に見送られ、華やかな雰囲気を醸し出しながら母校を去って行く卒業生の姿を、静かに、心重く見やったものである。

子供たちの常体、発達段階に応じた内容と表現の難かしさ、そして、それを毎日見事に実践している現場の先生がたのご苦労を、告辞を通して痛感したのである。私にはお手あげの、幼稚園の先生は名人芸とも思われるほどの巧みさというほかはない。

さて、明春は?年末だ、正月だと言っているうちに、年度末の忙しさに追い回され、告辞で苦悩するぞ!と思い始めた。小学生や中学生の姿が、次第に告辞の対象として意識されてきた。

教育長席が特設され、町長などの来賓よりも上席に着席し、年に一度のモーニング姿で、一見晴れがましく見える卒業式も、私にとっては案外気の重いものなのである。

(小野町教育委員会教育長)

 

 

 


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