教育福島0058号(1981年(S56)01月)-025page

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交流教育の実践1)

 

福島市立福島第四小学校

 

本校は文部省より心身障害児理解推進校の研究指定を受け、五十四年度からか福島県立盲学校、同肇学校福島分校と「障害児を正しく理解し認識を深めるための交流のしかたをどうしたらよいか」の研究主題のもとに研究をすすめることにした。

一 五十四年度の交流

指定を受けた五十四年度は、運動会や霊山子どもの村交歓会、学芸会、クリスマス交歓会などの学校行事を中心に研究実践をすすめてきた。

その交流の中心となってきた三年生は、交流を重ねるたびに、障害児への理解も深まり、障害児も自分たちと変わりない「子ども」であり「仲間」なのだという認識を持つようになってきた。そして、子供たちの中から協力しあいながら工夫して遊んだり、勉強を共にしてみたいという考えや意見が多くだされ、今までより一歩進んだ交流を求めるようになってきた。

五十五年度は低、中、高学年のブロック研究を主体として研究を進め、交流の可能性と問題点を究明しながら実践研究をすすめることにした。

二 五十五年度の交流

(一) 交流の機会の設定

五十四年度に比べ、交流指定学級を各ブロックごとに二学級ずつ決め、交流指定学級中心による交流と、学年全体による交流をはかるようにした。

また、交流領域や内容の拡大も図り道徳、特別活動、給食、なかよしの時間、課外訪問、手紙の交換など、多様な場を設定し、各ブロック研究ごとにテーマを設定して研究実践をすすめることとした。

(二) 研究組織

まず、研究推進委員が実践研究の中核となり、各ブロック研究が研究テーマに従って研究を進めるようにした。

学年研究では、授業研究や交流行事を実践し、全体協議では研究に関して問題になった点を解明し、全職員の共通理解を図るようにした。

学年研修だけでは授業の中での細かい指導の手だてや教師の出番、グループ編成などについて話し合うことができにくいため、担任同士の打ち合わせも多くもった。

(三) 授業研究

今回の交流授業で行われた形は中心授業者と補助者というチーム・ティーチング方式が多くみられた。

中心授業者には多くの場合、大勢の児童を指導することに、ふだんなれている四小の教師が当たることにした。

また、教師の専門性を生かす点から盲学校、聾学校の教師が当たることもあった。

座席の決定は、弱児、全盲、高度難聴だけでなく、グループの中の位置づけも考えたり、めんどう見のよい子の近くに置くなどの配慮をしてきた。

板書の仕方も弱視の児童には、黒板の字が読みとれるように、なるべく大きい字を書くように心がけてきた。

全盲の児童に対しては、目からの情報が得られないので、声をだして板書し、四小の児童に読ませるなどの配慮をしてきた。

三 交流の実践と成果

四月には、交流指定学年ごとに初顔合わせ会を行った。これは、三校の児童の不安や緊張をとり除き、身近な友人として親しみをもたせ、以後の交流を容易にするうえで効果的であった。

交流運動会では、一緒に競技をする中から「共に学び、共にからだをきたえる」ことをねらいとした。

盲学校、聾学校児童の競技種目は、本校の児童と同じものを一緒に行った個人走では三位以内に入賞する児童が多くみられた。

このように盲学校、聾学校の児童に本校の児童と同じ体験をさせ、自己の体力の限界に挑戦させたこと。更にすばらしい成績をおさめたことは、今後の生活にかなりの自信を持たせることができたものと思われた。

また、全校行事の運動会に練習の段階から、盲学校、聾学校の児童を組み入れたことは、交流対象学級でない他の学年の児童も共にふれ合うことができて、交流の意識を高めるのに役立ち成果があったと考えられる。

交流水泳記録会には、困難をのりこえ、強い、えらいなど、ただ知識として受けとめることから、実際に体得する生きた教育ができたと信ずる。

初顔合わせ会のころは、教師の指示がないと障害児に対して働きかけをしなかった低学年児童も、回を重ねるたびに友達(障害児)を昇降口まで迎えに行ったり、手伝ってやったり、自分の意志で自然に接するようになってきている。

交流後「ゆっくり話したらわかったよ」など、交流するたびに新発見をし障害児に対する理解は深まってきた。

このほか、特別活動の交流授業を実践してきたので、盲学校、聾学校児童も、固苦しさや、遠慮しあうところがなくリラックスした気持ちで授業を受けることができるようになった。

 

みんななかよし

 

みんななかよし

 

 

 


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