教育福島0058号(1981年(S56)01月)-028page

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随想

 

体育ノートから

 

植田守

 

クラスの子に、

 

クラスの子に、

「好きな勉強は何か」

と聞くと

「体育」

と、答えがはね返ってくる。その中に決まってうつむいてしまう子がいる。

むしろ、体育などなくてもいいと思っている子だ。

彼は肥満児で、体を動かすのもおっくうがっている。特に、とび箱が嫌いである。なぜ嫌いなのか。彼の体育ノー卜を借りてみる。体育ノートは、体育の授業の感想や記録を自由に書いておくノートだ。

「きょうの腕立て開脚とびもだめだった。どうしても、とび箱の前まで行くと足が止まってしまう。助走はいいのだがとべない。どうしてうまくとべないんだろう」

私に向かって、とび箱の必要性と上達法を示せと迫っているようだ。

彼は、できればみんなの前でうまくとんでみたい。だれもとばない八段をとんで、級友の羨望と称賛を勝ち得たいのだ。だが、現実は厳しい。体が思うように動いてくれないのだ。

一斉指導の中では、どうしてもうまくとべない。グループの仲間の励ましがあっても、やはり同じである。うまくとべないMは、すっかりあきらめているのだ。自分で、とべないものだと決め込んでいる。Mをとばせるには、「おまえは、度胸が無いからだ。思い切ってとんでみろ」

と、怒鳴ってもむだである。怒鳴ってとぶくらいなら、とうの昔にとんでいるはずだ。

助走、踏み切り、手の着く位置、腕の突き放し、着地等のそれぞれのポイントを詳しく説明してもなかなかうまくいかない。

五段となるともういけない。とべる気がしないのだ。助走のスピードを生かしてとぶことが、どうしてもできないのだ。

友達のを見ても、その通りやることは至難の技である。だが、一度の成功体験は千度の説明に勝ることもある。

彼に、とび箱を一段だけ助走なしでとばせることにした。

「ここからとんでみろ」

彼は妙な顔をした。馬鹿にするなという顔であり、こんなのはとべるのが当たり前だという顔である。ちょっと待ってほしい。一段のとび箱をとんでも、とんだことにはならないのか。

「先生、ぼく五年生だよ」

「一段でも、とび箱はとび箱だ。とんでみろ」

自信を持たせるためなのである。とにかくとばせてみる。

次は二段だ。二段も無理なくとべる。すぐ三段だ。ここまでくると体もほぐれてくる。気持ちに余裕が生まれてくる。

四段に挑戦だ。あせらないで、手の位置を正しく、その場で馬乗りをさせる。それを何度も繰り返させる。軽い助走でとばせてみたがもう少しだ。三段にもどり、助走のスピードを落さないでとぶ要領を身につけさせる。次の四段はあっけなくとべた。

彼のノートには、

「ぼくは、きょうとび箱をとんだ。四段だった。この次は、五段、六段にちょう戦したい。」

とべない自分はもともといなかったのだ。「とべる自分」に気づかなかっただけなのだ。

めあては一人一人に成立する。一つの成功体験が、次のめあてを生み出す。

「先生。この次のとび箱いつだ」

ひとみを輝かせながら、はずんだ声がひびいてくる。

(相馬市立桜丘小学校教諭)

 

うまくいったゾー

 

うまくいったゾー

 

 

 


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