教育福島0058号(1981年(S56)01月)-030page
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随想
心のハーモニーを求めて
内海貞
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「先生、ぼくの指揮で、第三回福島高専男声合唱団定期演奏会を開くことになりました。おそらく忙しくておいでにはなれないと思いますが……」と招待状をそえた手紙が届いた。中学校卒業して五年、コーラスの味?が忘れられず、とうとう高専に男声合唱団を作ったのだ。休暇ごとに訪れての後輩の指導ぶりに、勉強の程がうかがわれた。もう卒業、早いものである。早速祝電を打ってはげましてやりたい。
そんな時の夕ぐれ、ひょっこり背広姿の紳士の訪問をうけた。長崎への社員旅行の帰途である。本場長崎カステラを手にして、彼は高校時代、合唱をやる機会に恵まれず、テニスのチャンピオンとして活躍し、そのあいまに中学を訪れていた社員一年生である。当時、音楽祭で歌った「筑後川」の「河口」の楽譜を印刷していたのでせめてものお返しにおくった。
四年ほど前だったと思う。福島市の中学校を参観した時のことである。お願いした音楽の先生を校長室で待っていた時、息をはずませて入って来られた先生は、「校長先生!本当に教師冥利につきますわ……」と。今、卒業生を送る会での全員合唱「タンホイザー行進曲に演奏の感激が、そばの私にもじかに伝わってくる。おそらく、日ごろの教育活動のすばらしい成果と推察するとともに、「教師冥(みょう)利につきる」の言葉が胸に強くつきささった。その時以来、妙にこの言葉が脳りを離れない。
教師を志して今日まで、ずいぶん長い年月を経過してしまったが、果たしてこう自信をもって言い切ることが私にできるであろうか。
思えば戦後の混乱期をやっと脱出したころ一私は漱石の「坊っちゃん」で名の知られる松山市の小学校へ音楽の専科として赴任した。その学校は、旧練兵場跡に文部省モデルスクール校舎として建てられ、全国から参観者があった。私はそこにおいて十一年、しかもそこで合唱指導に対する眼を開いていただく機会を得たのである。当時、愛媛大学附属小と音楽の名門をきそっていた学校だけに、新卒の私にはこの大任が負いきれるだろうかという不安でいっぱいだったが、幸い、二年間ではあったがM先生(一昨年まで都の音楽の指導主事をされた先生)のご指導と、ご一緒にお仕事をさせていただいた経験が、今の私にとってどんなにか支えになっていると思う。その時の校長先生は、新卒以来三十五年間その学校に勤務しておられ、何かとめんどうを見てくださりご助言いただいたものである。「あの研究会に参加したい」とか「○○校の声が聞きたい」と申し出ると、無理な中から、北は仙台、南は熊本まで私のわがままを聞いてくださったことも、思い出としてありがたく心に残っている。
更に、放送教育研究会の仕事や、民放の子ども向け合唱番組を受けもつことになり、いろいろな出会いを通して、私は次第に合唱音楽の魅力にとりつかれていったのである。
不思議な縁で福島県でお世話になることになり、もう一度新しい気持ちで出発しようと、えりを正して着任して十数年になった。言葉の勉強からはじまり、なにかと子供たちに世話になりはげましを受けた。そして温かい先生がたの心にも…。
今、会津の中学生とともに、より美しい合唱、心のハーモニーを求めて努力している毎日である。卒業していく男生徒の母親から、「先生、合唱というすばらしい世界を開いてくださった息子は幸せです」の言葉に、やっぱり音楽教師をしてよかったと思う。
(会津若松市立第四中学校教諭)
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美しいハーモニーで
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