教育福島0058号(1981年(S56)01月)-031page
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随想
このごろ思うこと
緑川矩之
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四季折り折りに、盆栽愛好者の自慢の鉢が職員室に飾られて、いっときわたしたちの心に潤いを与えてくれる。
さつきシーズンになると、愛好者が長い年月をかけて丹精こめた見事な花のさつき鉢が飾られる。
単なる観賞者であるわたしには、大きな樹に花が咲き誇っていることだけで美しいと思うのであるが、専門家である愛好者たちは、あらゆる角度から観賞している。
水やり、肥料、枝ぶり、根張りなどはこうあるべきだなどと口角泡をとばし、まだまだ未完の域を出ていないというような批評をしあう光景がよくみられる。愛好者たちにとっては、美しい花をつけていることが最高のよろこびではなく、花をつかせるまでの育てかたが大切であるといったような口調である。
最近、新聞やテレビで、教育に関する報道がない日はないといってもよいくらい教育問題が云云(うんぬん)されている。また書店に入れば、教育に関する書物がやたらと目につき、教育についての情報はまことに豊富である。
教育問題に意見が百出すること自体は、教育に関心と期待が寄せられることであるから、歓迎すべきことであろう。一つの枠にのみとらわれた教育観や教育方法が、いかに危険なことであるかは、わたしたちの経験してきたところである。
しかし、何事も結果を重視しがちな世相を反映して、教育の現象面にとらわれ、表面に現れた事柄に一喜一憂し、その結果に至る過程を十分に検討せずに一言述べたがる人たちが多すぎると思うのはわたくしの思いすごしであろうか。
わたくしの勤務校は、女子高校ということもあって、学習指導に苦慮しても生活指導面で深刻な問題は起きていない。このような学校に永年勤務していると、いざ転勤せざるをえなくなったような時に、もっとこの学校で教えていたいと思うのは正直なところである。
他校の先生との話し合いの中で、必ず話題になるのは生徒指導がいかに難しいかということである。今日、学校内外での研修の機会が多くあるため教師の教科指導法は向上してきた。また施設設備の充実が図られ視聴覚器具などが整備され、恵まれた教育環境になってきている。更に、各家庭では経済事情の許すかぎり、なに不自由ない勉学の場を子供たちのために用意している。このような環境にありながら、児童生徒の指導問題がおこり、それが一番難しい問題となっているのはなぜなのだろうか。
行政当局が、いかに具体策を考えて通達を出そうとも、また、マスコミ等がセンセーショナルに教育問題をとりあげ、その処方箋を示してもおそらく問題の根本的な解決にはならないであろう。
社会、学校、そして児童生徒の家庭が「教育のあり方」を新たに認識しない限り、生徒指導問題の解決も、正しい教育の発展と充実はあり得ないと考える。
盆栽愛好者たちが、その盆栽の将来を期して、一芽一芽、一枝一枝に年月をかけて育て、その生長の過程を見守るように、われわれ教師は、言葉を先に出すのではなく、児童生徒の能力、個性を十分理解し、手を差しのべて物を得ることの労苦、物を使うことの大切さを体験させたい。この錯綜する時代に生きる術を教えたいと心を新たにしているのは、わたくし一人ではあるまい。
(福島県立白河女子高等学校教諭)
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ここにもプロセスが…
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