教育福島0058号(1981年(S56)01月)-032page

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随想

 

ペスタロッチ子供の村

 

牧野 芳子

 

ースのカーテンを透した灯火がにじみ、聖夜をおもわせる夢幻の世界であった。

 

一夜、降りつもった新雪が朝の陽を受け、光の粉となって足元から舞いのぼる季節となると、スイスの山ふところにあるペスタロッチ子供の村を憶(おも)い出す。降り出したばかりの雪に埋れ、樹々の枝や屋根に雪を置いた家々の窓は、早い夕暮にレースのカーテンを透した灯火がにじみ、聖夜をおもわせる夢幻の世界であった。

一九七九年婦人教育関係の海外派遣団の一員となって教育施設ペスタロッチ村を訪れたのは秋が一段と深まったころであった。子供の村はチューリッヒ市街より北東へ八十キロメートル、海抜九百三十メートルの山麓にある。第一次大戦で孤児となった子供たちを各国から受け入れ、ペスタロッチの教育方針のもとに家庭的な温かい教育をという精神から一九四六年哲学者ワルター・コルティが創立した村である。

ペスタロッチは広く識られるとおり、一七四六年チューリッヒに外科医の息子として生まれるが五歳のときに父を亡くし、母スザンナの手で育てられた。学生のころに愛国者団を組織し、結婚後生活の安定を得るため当時流行した重農主義に傾倒しノイホーフで貧民学校を設立する。農民の子供を集めて糸紡ぎと読み書きの教育をし、幾年かの間に五十人以上のこじきの子と一緒に生活し、貧苦の中で彼等に自らのパンを分けこじきが人間らしく生活することを学びとらせた。その後二十年ほど経て再びシュタンツで孤児院を開くのであるが、その間、内面的思索に沈潜し有名な"隠者の夕暮れ"と"シュタンツだより"を著作する。前者は人類の教育史上に顕れた一冊の聖書であって、それは教育における山上の垂訓にも等しい。シュタンツだよりは孤児院の成立とその管理方法、孤児教育と、道徳教育の一般的原理を述べたものである。

この両書のなかで彼は、人間の本分と人間教育の根本原理を生活圏の思想として展開している。人間の生活の範疇(ちゅう)はすべて内的に関連しあい、神、すなわち人間の魂にとって、最も内的で最も近い関係にある神が、中心として調和を保っていることを説いている。神をここでは愛の形で子供たちに啓示している。また教育というのは被教育者の個人的境遇に結びついてのみ成功するものであり、更に教育は親と子との人格的感情的基礎の上でのみよく成就されるものであるといっている。シュタンツの孤児院の教育愛の体験からは、子供をとりまく自然と日常生活のいきいきとした活動のうちに、教育の方法原理を求める近代教育学の理論が確立されていったのであった。

子供の村の建造物は、山ふところの広大な敷地に全部で二十八棟点在している。子供の家十二、青年の家、給食室、学校、事務局、台所、プール、農家、教会、体育館があり、財団法人で経費の基盤は募金とバザーの収益金である。スイス国内に住む里親の定期的送金が募金の主軸となっている。世界十か国(フィンランド、ドイツ、ギリシャ、イタリヤ、インド、チベット、韓国、ベトナム、エチオピア、チュニジア)の子供たちで、両親役の教員資格をもつ夫婦が中心となって家の形態を作っている。入村資格は七歳から九歳までの孤児で年齢の上限は九学年まで。現在子供の数は百十名。他に十六歳から二十歳の青年が百名、二十歳以上も数名いる。入村の条件は普通の学校での教育に適さないもの、すなわち家庭の事情が悪くいろいろな面で恵まれない子供であるが、精神的肉体的に健全でなければならない。母国が同じ十名の子供と教師が一つの家で家庭的に生活するのである。小学校三年までは母国語で教育を受け、同時にドイツ語も習得させ四年から村の学校で全員一緒にドイツ語で教育される。カリキュラムはアッペンシェルン州のものを使用するが高学年は家々で出身国の地理や文学、言葉、文化、教育を週三時間修めて母国の生活にも適応できるような配慮があるという。

時代を隔て、現代教育の理念が今もじょうじょうと脈打ち息づいているのをおもうと胸が熱くなる。

日本の戦後教育課程で今日的課題を内蔵した豊饒(じょう)ではあるけれどかつ驕(きょう)横な教育を顧みるとき、そうであればあるほど近代教育学の中心的な原理の原点にたち返す、くりかえし反すうする要を惻々と思うのであった。

(原町市教育委員会委員)

 

 

 


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