教育福島0060号(1981年(S56)04月)-005page

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巻頭言

 

劇的なもの

岩間芳樹

 

披歴している。つまり、私の人生をドラマにしてくれ、というわけである。

 

ちかごろ、自費で自伝を出版する老人たちが多いようだ。老後、自らの過ぎ来しかたをふりかえり、記録としてまとめておきたいと思いたつのであろう。全国各地の、見ず知らずの老人たちから、そのような出版物が、私のところへ送られてくる。私が、実在した人物を長時間のテレビドラマにすることが多いためであろう。送られてきた本に添え書きされた老人たちの手紙には、一様に、この自分史がドラマたるべき波乱に富んでいるはずだ、と自信のほどを披歴している。つまり、私の人生をドラマにしてくれ、というわけである。

私が選考委員をしている福島県文学賞の小説部門にも、そのような老人たちの手になる自伝的作品の応募が少なくない。やはり、その多くが、自分の人生での劇的な局面を切りとって、己が心の葛藤を描いている。

この人たちは、たまたま文章を書く力を持っていたわけだが、人は恐らく誰もが、自らの人生が劇的であったと思っているにちがいないのである。ことに、こんにちの老人たちは、戦前、戦中、戦後を経た波乱の時代の体験者たちである。時代と個人のかかわりをダイナミックにかかわったことになるから、その想いもひとしおであろうと思う。

私は、人間にとってなにが劇的であるかを考えるしごとを、三十年ほどつづけている。私にとって、なにが劇的であるのかを、登場人物に擬して、自らに問いかける作業である。その作業の多くを、私は民衆史的立場に拠って書いたのだと思っている。それはやはり、私自身が戦争を境に百八十度の価値転換を余儀なくされた世代の一人であり、その時期の若き多感な民衆であり、その変転を流れたからである。

時代と人間、集団と個、そして個内部でのあらがい…。そうしたところに劇性を求める根拠も、かの原風景にある。しかし、劇的状況はまさに千幻萬化で、とどまることがない、だから次々と作品を書かねばならないという衝動に駆りたてられる。重ねゆく馬齢によってもまた、人間世界を見る目は変わるから、書き手自身も流動的なのである。そうしてまた書く。書かなくてはならないことに、絶えず追われている。作家の業というべきだろう。

老人たちから寄せられた自伝に、共通点がある。それは自分の人生への感慨を、不動で固定している点である。作家のしごとには、それがない。その人生を、他者によって連想され、内的に再生されることを願うからである。文章を書き終えたときから発生するものを予期するからである。だから作品には寿命がない。生きつづけるはずである。ただ、多くの老人たちから寄せられた記録は、私の方程式のなかで、老人が総括した彼自身の評価を超えて消化され、別の花を咲かせてくれる。

(いわまよしき作家・福島市出身)

 

 

 


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