教育福島0061号(1981年(S56)06月)-023page
随想
距離感
渡辺伝衛
ある年の三月、校門から送りだした卒業生の姿に目がしらを気にしながら職員室へもどる後から、「先生、生徒が別れを惜しみ、ありがとうございましたと涙ながらの言葉を残して去る姿に対して、先生は三年間こたえてやったかどうか、反省しなくてはならないよ」送りだした安堵感にひたっていた心には、矢のような言葉であった。瞬間、「こんな時に、この校長先生は」と気持ちがおさまらないうちに「先生が自分の子供の学級担任だとしたらどのような評価になるかな」いよいよ気持ちがおさまらない。ついに言葉にしてしまった。「校長先生、私は子供たちとのふれあいを大切にして接してきたつもりですが」大変遠く離れた距離を感じながらの言葉に対し、「いや、先生の今日までが悪いというのではなく、そんな考え方で学級を担任することが大切だということです。生徒は担任を選択できないからな」その話とともに笑顔で肩に手をおかれました。この時の笑顔と手の重さは、それまでの距離を全く身近なものに感じました。
感覚の世界での距離感は、実際の距離と違って変幻自在なものである。地球から三十八万キロメートルの月も、人間の月面着陸によって全く別の距離感となり、更に、スペースシャトルのコロンビア号は、新たな距離感へ書き替えることに成功した。
教職二十年の距離、最近、生徒との距離にますます大きな隔たりができてしまっているような焦りを感ずる時がある。生徒の現在に追いつけないような距離である。女子生徒が「先生、うちのおばあちゃんナウなんだよ」その言葉に「どうして」と問い返しながら期待できない答を思いめぐらす。今、生徒の生活には「ナウ」がなんの抵抗もなく入り、消化され、そして事の善し悪しは別にして突っ走る。追いきれない距離を感じる。
「身近に引き寄せなくては」と心につぶやきながら機会を考える。廊下での出会いは好ましい一つの場面である。すれ違いながらの言葉や笑顔。歩きながらの気楽な雑談は心を開きあう一つのチャンス。また時に、前日の部活で厳しかったら意識的に廊下の出会いをつくる。「きのうは大丈夫だった?」「ウン、大丈夫」笑顔で返してくる言葉に前日の苦しさの影は消えてしまっている。「今日もまた頑張って」「ハイ」満たされた姿で去る足どりに安心する。廊下は生徒にとって大切なコミュニケーションの場であるとともに、私にとっても大切な生徒指導の一つの機会である。窓から景色を眺め気の向くまま、自由な位置で距離をなくして語りあえる場である。
「なんとかしなければ」ナウにさからう教師になる。あれもこれもと見えてくるすべてを生徒に注文し、「古いナ」といわれながら許容もゆとりも与えない一方通行の生活を強要しては距離を感じて焦る。
「離すまい」だが四十五名の一斉授業では逃げる。四十五分の一の心くばりは身近に引く力としては弱い。「先生、今日の理科はどちらですか」「教室で」次の瞬間「理科室でやろう」生徒のねらいは残念ながら観察や実験に関心があるのではなく、二、三人の顔がかたまってコミュニケートできるテーブルがあることに楽しみがあり目的がある。実験開始、机間巡視をしてテーブルをのぞくと論外な質問にあうことがある。「先生、何年生まれ?」軌道修正に躍起となる。「実験中だぞ」生徒は顔と顔を見合わせる。内心「古く思っているんだろうな」生徒のくもりない顔に心と心の距離を考えさせられる。
(原町市立原町第二中学校教諭)
心のふれあいを求めて