教育福島0062号(1981年(S56)07月)-022page

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随想

 

心のとびらにふれて

 

山垣美枝子

 

校に入学したという喜びが、一年生としての誇りが、全身にあふれています。

 

入学して間もない子供たち、小学校に入学したという喜びが、一年生としての誇りが、全身にあふれています。

道徳の時間のことでした。「わたしは一年生」という主題で学習を進めていました。

「どう、学校は楽しい。好き」と聞くと、「楽しい」「好き」と、即座に返事が返ってきました。お友達と遊べて楽しい。校庭や体育館が広くて楽しい。勉強がおもしろい。字が書けて楽しい。おそうじが楽しい。なんでもが楽しく、学校は大好きという様子。

私は満足顔で、「学校いやになった人いない」と、たずねてみました。一瞬、私の顔はこわばったにちがいありません。さっと一人の手が上ったのです。U子さんでした。入学して一か月そこそこ。予期しないこの挙手に、本時の腹案はすべて消え去りました。

いじめられて学校がいやになった。できることならすぐにでもやめてしまいたいというのです。細々話しているうちに一層悲しそうな顔になってくるのでした。すると、わたしも、ぼくもと、くやしかったこと悲しかったことを報告して、だからU子さんの気持ちがよく分かるというのです。

子供たちに目を向け、心を配っていたつもりでも、私にはこの子供たちの苦しみや悩みが、少しも見えなかったのです。明るく屈託なく見える子供の世界でも、それぞれの子供の間で無数のできごとが起こり、さまざまなふれ合いがあって、いたく心をゆさぶられていたのです。(いかにも楽しげに遊んでいるグループに、入れてもらえなかった時の寂しさやつらさを心底思いやってみたことがあったであろうか。日常茶飯事のこととして慰めのことばすらかけてやらず、相手にもしなかったこともあったのではないか。)

まもなく、U子さんに学校をやめてほしくないという声が出てきました。運動会で綱引きや玉入れに負けてしまう。ダンスの時にも困ってしまう。それに一人減るので遊びもつまらなくなるし、友達が減ると寂しいというぐそれぞれの立場からやめて欲しくないと訴え、更に、やめてはいけないことに気づいていきました。

勉強をしに学校に入学した自分たちだったというのです。今、学校をやめたら大きくなって困る。レジの計算もできないだろう。回覧板がきた時、なんのことか分からず困るだろう。字も書けなくなる。それに、途中から二年や三年になることはできない。うちで一人ぼっちでいることも、寂しくてとても耐えられないだろう。そこでまた学校の楽しさが思い出されました。たくさんの科目が、活動が、きらきら光って子供たちを引きつけました。学校に来て賢くなりたかったのです。無限の光にあふれる世界に入り、可能性を求めて、人間としてどこまでも伸びていくことが楽しいのです。

毎時つたない授業を繰り広げながら心をゆさぶられ、胸をつかれ続けています。「知りたい」「できるようになりたい」と、全身で求めてくる子供たちゆえに……。

副読本を配った時のことでした。表紙の文字を一字一字たどりながら「あたらしいせいかつだって」「さくぶんのなにって読むの」と、どの顔も輝いていました。「早くこの勉強やつちな」「この本やりてえ」と、無限の光にあふれる世界へふみ込んでいきたい子供たちの叫びがうずまきました。

「やろうね」

限りない可能性を秘めて求めてくる心をしっかり受け止めて、私も子供たちとともに、大きく成長していきたいと思うのです。

 

(三島町立宮下小学校教諭)

 

ぼくわかったゾ

ぼくわかったゾ

 

 

 


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