教育福島0063号(1981年(S56)08月)-026page
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随想
伸びゆく芽
郡 司 千代子
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明るい夏の日ざしと、したたるような若葉のてりかえしが、きょうも園児の上にふりそそいでいます。園庭で元気いっぱいよろこびに満ちたその顔々を確認すると、私はきょう一日の出発に新しい決意がわき上がってきます。
この可愛い幼児とともに歩んできた私の道も十六年の歳月を刻んでまいりました。そのうちの十一年間は保育所の保母として、その後現在に至るまでの五年間は幼稚園の教諭です。それと申しますのも、当地区に町当局の努力で幼稚園が設置されたのが五年前で、そのとき私は保育所から幼稚園に移ったのです。もともと幼稚園教諭の道を専攻した私にとってはとてもうれしいことでしたし、幼児教育の重要性から考えても、よろこびとしなければならないはずでした。
ところが、幼児の親にしてみると、「保育所だって幼稚園と同じことを教えてくれるし、保育時間の長い分だけ保育所の方がよい」という意見もあったことに私は当惑しないわけにはいきまぜんでした。実は、当地区に幼稚園がない以上保育所とはいえ、幼稚園の受けもつ指導の分野までふみいって指導し、そのように築いてきたのはこの私自身であったからです。このような経過の中で、両者の違いにはっきり一線を画すことのむずかしさを痛感したのです。
幼稚園は学校教育法に基づいて文部省が、保育所は児童福祉法に基づいて厚生省が…ときまり文句をいったところで、それぞれの幼児を扱っている教諭や保母にとっては少しでもりっぱな子供に育てたいと願う心に変わりはなく、また、子をもつ親にとっても同じことで、ここに両者の保育内容の酷似してくるゆえんでもあります。このことは当町のみならず、地域を問わず更に歴史的にも論じられてきたことであり、年齢で分けるとか、組織内容の上で考慮するとか、行政サイドで解決しているところも見られますが、幼稚園教育にたずさわる私たちの努力が大切であると思っております。
ただ、「幼稚園は保育所とは違う」ことを見せようとするあまり押しつけた知識主義におちいることの危険性をいましめたいと思っています。親の方では「幼稚園に入れたら頭がよくなった」というような要求が多いし、そのようなことで評価する風潮はいなめないのです。幼児教育の創始者、フレーベルの「幼児と米粒」の一節に「幼児は可能性の全てを自分の内部に感じた米粒のように、それ自身に伸びる力をもっているものである。この伸びる要素は、生命と絶えず関連している活動として表れてくる。決して外からつくられるものでなく、外のものの影響を受けて伸びていくものである」とあります。無理に伸ばそうとするのでなく、芽が出やすいように周囲から刺激を与えて、無限の可能性をひき出したり、新しい感動をつくり出したりすることが、私たちの大切な役目だといえるでしょう。
私は「どんな子に育てたいか」という正しい児童観をもって安定した教育をしたいものと思っております。 ”これが幼稚園教育よ”という惰性で過ごすのではなく、新しいものを生み出していける基盤となる自己の創造性を発展させるべく互いに研修しあうことが必要であると思います。
私にとって、重責ではありますが、幼稚園指導員に委嘱され、これを機会に研修をし、自らの教育のみなおしができることは幸いと思っています。
幼児とともにある喜び、保育への愛着、幼児教育者としての誇りを強く持って、幼稚園教育の灯をともし続けていきたいと思っております。
(塙町立石井幼稚園教諭)
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すこやかな顔々◆々
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