教育福島0064号(1981年(S56)09月)-005page

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巻頭言

 

もうひとつの時間

 

青木義孝

 

青木義孝

 

私事で恐縮だが、凡夫にも「一期一会」が実感される年齢になると、以前には何気なく過ごしてきた毎日の時間か、今度は有無を云わせぬ有限なものとして意識の一隅に座を占めることになり、時には行く末の覚悟やいかにとさえ問いかけてくる。そのような時に来し方を振り返って見ると、忙しく流れている日々の営為の時間とは別に、自分自身とつきあってきたもう一つの時間が、ゆるやかないわば底流をなしているのに気がつく。このもう一つの時間の中にあるのは自分を形成している種々の要素だが、次のような二つのものも顕著であって、両者とも少年時代から現在に至るまで、飽きもせずに何度も何度も私の意識の中でその存在を主張している。

例えば、初夏のある晴れた日の午後のこと、右手には野が開け、左手には松林が続いている山道を一人歩いている時に郭公の声を聞いた。と、突然、郭公の鳴き声のある長閑さのゆえだろうか、ともかくも自分の周囲を流れていた日常の時間が停止して、その瞬間が深みを持った永遠の相を帯び、陽光を浴びている松の緑と野の広がりと、はるか彼方の空の青が過不足のない充実した空間として痛切に意識された。もう二十年以上も前のことである。このように外界の事物が常とは異なる生き生きとしたしかも申し分のない様相を私呈して意識に刻印されるというのが流の美の認識であり、これが底流の中の反復的一要素となっている。

二つ目の要素は気恥ずかしさを抑えて敢えて云うのだが、人間相互の温かさの認識である。年を重ねるということは一面では人間の不完全さを知らされる過程でもある。自他における利己主義、独善、狭量などがいやでも目につき人間の限界を思い知らされ、美徳はそれが十全に適合する対象を失う。冷徹な現実家の生まれる所以がここにある。しかし私には、そのような状況であればこそなおさら、自立して奮闘する個人を基盤としたその上での、見返りを求めぬ体の親切や愛情といった温かいものの存在が、繰り返し貴重であると身にしみて、この方の認識もまた底流の中の一要素になっている。

以上の二つは自分と向きあってきた時間の中からいわば析出されて私の価値観の主たる柱になり、一方では日々の営為を支えてくれる自分なりの護符の役を果たしていると同時に、他方では、誇張と響くだろうが、それら世にある限りこの身果つるとも悔いなしとまで思わせてくれるものでもある。このような時間の存在はその中身こそ違え明らかに私だけのものではない。

ところで、精神の領域における価値の問題は誰にとっても重要であり、教育とも深く関わっているが、また、その反面、価値観の相違ということから深刻な争いも生じる。人間をより良く生かすはずのものが、人間を滅ぼす道具に堕さぬよう祈念せざるをえない。(あおき よしたか 福島大学経済学部教授・同経済短期大学部主事)

 

 

 


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