教育福島0064号(1981年(S56)09月)-007page

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ハウ司教役の熱演は記憶に新しいところである。

大変な照れやで、人前に出るのが大嫌い、だから役者になったという。同僚から「おとうさん」と慕われ、旅公演では公演委員長の重責を担う。好漢わが道を歩むというところ。本名は正夫。

 

「エレファントマン」の舞台から

右 筆者 左 市村正親氏

右 筆者 左 市村正親氏

 

数多くの批評家を持ったという意味で実に厳しい時代に直面しているといわなければなりません。絶えず自らを律していかなければ、と思うのです。

また、この十年、世の中の激動の中で、芝居の中身そのものも変わってきていることに気づきます。ミュージカルでいえば、「マイ・フェア・レディ」や「南太平洋」などの良き時代の大型の舞台から、若者の創り出したもの−−彼らの汗と体臭の中から噴き出した「ヘアー」「ジーザス・クライスト・スーパースター」のような観るものの心に、烈しくゆさぶりをかけてくるような作品へと発展してきました。従来の自然主義的リアリズム演劇にあきたらなくなった若い演出家や俳優たちが、数々の試みを始めました。それはアンダーグランド劇であり、テント劇場であったりします。と、同時に芝居の簡素化がなされ、決してぜいたくでも何でもない人間の生きている喜びの中から、自然に湧き起こってくる本来の芝居が演じられるようになりました。

閑話休題。私の選んだ役者の道には多くの思い出があります。芝居の世界に身を入れようと思ったころ、−−実際、芝居に対する熱情が学習意欲と反比例しているような生活の中で、周囲のだれもが、いうところの「河原乞食」に反対する中で、親をも含めてこれらの人々を説得してくれたのは祖母でありました。この祖母は福島の出身で、当時の上野音楽学校出の文化人であり、いうならば「落ちこぼれ」「登校拒否」的な私を、好きな道に進ませてくれたかたでしたが、先年叔父(当時福島高等学校長 山本敬二郎)に見とられながらなくなりました。

私は今、たった一人の理解者のおかげで、自分の道を歩いています。役者は、与えられた役に本気になって生命をかけます。ほんとうの姿が、快い感動を呼び起こし、その感動が「愛と夢」を育んでくれることを期待しながら…。

 

 

 


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