教育福島0064号(1981年(S56)09月)-027page

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随想

 

自然法爾ということ

 

佐藤博治

 

佐藤博治

 

「自然法爾や遊戯三昧という言葉を知っていますか」と筑波大学附属小学校の石山忠造先生がいきなり問いかけられました。これは三年前の本校での研究公開時にお出になられた時の言葉であった。

私はこの言葉の意味する深さを理解できなかった。しかし、一昨年の同じ機会での次のような話の中から少しずつ理解できるのではないかと考える。それは「私たちは子供に感嘆や感動を数多く与えることによって、豊かなイメージを育てていく必要がある」し、また、「数多くのミニ・カーを買って一人遊びさせる母親でなく、一台のミニ・カーで畳の黒い布地をレールに見たてたり、新聞紙でトンネルを作ってドラマティック・プレイをさせてくれる母親の行為の中に見い出せる」と言われた。そして、この心温まる体験によって培われたイメージを、どう使って新しい問題に立ち向かわせていくかを考えていくことが、教師の役割であると示唆されました。

したがって、社会科の指導においても「世の中を統計資料だけで、客観的に調査・分析して理解することも大切であるが、それで目標や内容を達成できたと考えていいか」という問いが必然的に出てきたものと考えました。

先生の言葉の中に、人間を育てる上の心の優しさと教えることの難しさ、また、厳しさを考えさせる言葉が数多くあり、これもその一つである。

また、先生が六十歳を超えられても学級を担任され、総合活動の一環として御輿を一年生とともに作り、学校前の春日通りを汗を流してねり歩いたことをとっても楽しそうに話された。

これらの先生の言動や著書からも深遠なる哲人を見る思いがする。

これと似たような感動を一昨年、会津若松で味わうことができた。

それは、本校社会科研究部員の先生がた全員で伝統工業を調査するために当時、会津教育事務所次長斎藤泰喜先生に、ある漆器工房と窯場の紹介を頂いた。

そこで私たちは尋常小学校卒業以来五十余年、蒔絵一筋に生きた姿を見たことです。そのかたは蒸し暑い部屋の中でステテコにランニング姿、額に大粒の汗をにじませながら「おれはね、これしかできないが、筆が走るときは本当にうれしい」と気取りなく言った老蒔絵師の姿。

そして、本郷の窯場で「青森県の高校卒業してから三年間、こうやって粘土をくだいているんです」と言って土ぼこりをかぶっていた二人の青年。

同行した若い女の先生は、大変感動したようすで、「この感動を子供たちと一緒に考えることはできないだろうか」と語っておりました。

老蒔絵師そして陶芸家を志す青年。いずれもその生き方には感動を与えるかたがたばかりです。そして、私は石山先生と共通するものがあるこれらのかたがたに軽い嫉妬心さえも感じる思いであった。

私はまだ石山先生の言われた「自然法爾」そして「遊戯三昧」の本当の意味はまだわからない。親鸞の教えを求めようとしても容易に理解できない。そこで、何かを求めて没頭できる機会がある学校、そこに生きることのできる自分が仕事をていねいに進めれば、いつしか、これらの意味を体得できるのではないかと考えている。

以前、京都旅行した折、大徳寺大仙院の住職尾関宗園師が語った「熱時は熱殺、寒時には寒殺」という禅語の中にこれからの私の行くべき道・心の指針をみいだしたような気がする。

(白河市立白河第二小学校教諭)

 

豊かな心を

豊かな心を

 

 

 


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