教育福島0064号(1981年(S56)09月)-029page
随想
心の在りか
渡部光子
最近、新聞やテレビで報じられる社会の情勢は、トフラーの「第三の波」ではないが、微妙な渦が、これまでの流れと全く違う動きを始めたように感じられる。また、これに対処するべくあらゆる分野で、英知がしぼられ、また、価値観の見直しが模索されている混沌とした時を迎えたように思う。もちろん教育についても、いろいろの立場、世代・見地から論ぜられ、発達したマスコミを通じて、広く問題提起がなされている。ある意味で、教育を語ることは、誰にでもできる容易なことだと思う。それだけに多分に誤った方向へ行く危険性を含んでいるにしても「社会」が子供たちの心に及ぼす影響力を、真剣に考えることによって、大きな誤りは避けられると思う。
高度に文明化された現代に「生」をうけた子供たちは、そこで生きぬくべき、知識・技術を、明白な目的のため教育されてきた。それは、素晴しい成果となって、今日の科学技術に代表されるような繁栄をもたらし、将来もそういった面での恩恵は絶大なものがあると思う。しかし、何の本で読んだ言葉か忘れたけれど、いつも、ふっと心に浮かぶ次のくだりは、私に一つの指針を与えてくれる。「こころの在りかは、目に見えず、手にふれることもできまぜん。しかしそのはたらきは大きな力をもっています」と。この目に見えず、手に確かめることもできない子供の「心の在り方」をさぐりつつ、信実なるはたらきかけをしていくことで子供自身に、自分の心の在りかを見つめさせることが、これからの世代を、「人」として生きていく子供たちにとって何よりも大きな力となることだと信じます。きちんとした結論や、成果があらわれるようなものにのみ、大きな価値を与える現代において、成長していくにつれて、人としての自分を見つめる心が、だんだん子供たちの中から影を薄めていくのを、単に、文明社会の副作用としていられないところに「教育」があるのだと思う。自我意識の芽ばえる二歳ごろから、テレビに始まり、あらゆる情報、価値観の中に身を置き、家庭、学校、地域社会以外の多くの刺激が、目から耳から入って、片方で否定されても、一方で肯定されるという感覚の中で育っていくうちにいつしか自分にとって都合の良い解釈にとびつき、より安直な問題解決の方法を選択していくうちに、自分だけ、または、同じような仲間でのみ通用するような、狭い意識にとらわれ、他に対しては、防衛本能が先走るような甘ったれた仲間集団が形成されていく。自分の心を他に預けてしまっているのに気づかない。
先日のロングホームルームの時間に朝日新聞の「今日の問題」(七月十八日)というコラムを、生徒に読んで聞かせた。「暴力団の実像」という題で警察庁科学警察研究所が、暴力団員の面接調査した時のデーターをもとにしたこのコラムは「…仕事が面白くない、学校がつまらない、親が悪い、悪い先輩友人がいたであり、もしそうした条件がなかったら暴力団に加入しなかったという団員たちの言葉に対し、学校のせい、自分が悪いのじゃなく他人のせいだと考える甘ったれ集団が暴力団である」更に、「親が悪ければ、自分が、いい親になろうと努めればいい。悪い友人なら切り捨てればいい。つまらない学校なら、努力して面白くすればいい…」と論は展開されている。読み終わった後の生徒の反応は、しばらくシーンとしていたから「あなたたちが日ごろ少なからず思っていることと今読んだ暴力団員の人たちの気持ちにそんなに大きな隔りがあるかしらね」と問うと困ったような、照れくさいような顔をして「ウーム」と考えこんでしまった。非社会的、反社会的行動はその理由がいかに心情的に理解され、また、たとえ同情されることであっても、それは、その人の心の甘えであり社会に対しての甘えであるから、正常な社会人として認められないのだということを、改めて考えたようである。他罪的・殺那的傾向が強い生徒たちに己の心の在りかを問い続けさせることによって、確かに心の問題は簡単に、合理的に割り切れるものではないけれど、人間の醜さ、弱さ、哀しさを少しでも克服していく力を持てるよう励まし、啓発し続けなければならないと改めて思う。
(福島県立福島農蚕高等学校教諭)