教育福島0065号(1981年(S56)10月)-005page

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巻頭言

 

師弟の絆

丹藤祐輔

合は、卒業の見込みなしとして退学になった。彼は縄渡りで卒業した訳である。

 

会津中学校卒業証書授与台帳によると、第十三回、明治四十年三月に卒業した生徒の数九十二名、最年長者は二十三歳、若年者は十七歳である。その最年長者二名の中に、大塚氏の名がある。彼は五年の課程を十年かけた。当時の及落の基準は厳しく、平均点六十点未満、または一科目五十点未満は落第。つまり原級留め置き、二年間で進級できない場合は、卒業の見込みなしとして退学になった。彼は縄渡りで卒業した訳である。

会津中学の生徒会は学而会という。白虎隊之詩を作られた佐原盛純先生が命名されたものである。明治三十八年刊、学而会雑誌第四号によると、学而会理事長つまり生徒会長に、彼が四年生のときに就任している。当時の、長幼の序に厳しく上級生には絶対服従の気風の中で、五年生を差し置いての就任は異例のことで、彼の人柄、年齢によるものであろう。

さて、彼の在学中の数学担任は大内賢蔵先生であった。先生は東京物理学校卒業後、数校を経て、明治三十四年本校に就任、数学科を担当、また、育務主任として専心生徒の学力向上、品性陶冶に尽力、校風改善に努力し、生徒の信望を集めておられたが、四十一年四月、五年生の修学旅行の監督として金華山に向かい、帰路船中で発病、腹膜炎で宮城病院に入院、病状悪化、六月二十八日帰宅、七月一日に逝去、亨年三十七であった。同月二日全校五百の生徒に送られて融通寺の墓地に葬られた。学而会雑誌第三号によると、当時全盛を極めた短艇部の監督が大内先生、理事を大塚氏が勤めている。おそらく、数年にわたり、大内先生指導の許に、夏は洋々たる猪苗代の澄湖に艇を進め、十六橋戸の口の合宿所に起居を共にして、浩然の気を養い、体力気力を練磨し、夜は天下国家を論じ、短艇部員は深い薫陶を大内先生から受けたのに相違ない。

実は、大塚氏の数回に及ぶ原級留め置きは、大内先生の数学の評価が最大の原因であった。しかし、彼の先生を敬慕する情止まず、先生が急逝されると、直ちに、一年後輩で同じく二十三歳で会中を卒業した佐竹氏と相謀り、先生の一周忌に石碑を建てるために募金活動を進め、当時の校長浅岡一先生から碑文をいただき、融通寺境内の大内家墓地に、大内先生之墓を建て遺徳を偲んだ。

この史実は、去る七月十九日、会中の旧師でまもなく九十歳になられる相田泰三先生が、而立会(七十歳代の合同同級会)総会の席上、来賓としてのあいさつの中で、最近の校内暴力を慨歎して話してくださったものを、私が数少ない資料を漁ってまとめてみた。事実相違があればお許し願いたい。相田先生の涙ながらのこの話に感銘した私は、翌日の一学期終業式のとき全校生に、会高の伝統を考える一つの縁としてこの話を聞かせた。生徒は静かに聴いてくれた。父母教師の慈愛、子弟の敬愛こそ、教育が機能する原点であることをつくづく思うものである。

 

(たんどうゆうすけ 福島県立会津高等学校長・県高校長協会会津支部長)

 

 

 


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