教育福島0065号(1981年(S56)10月)-028page
随想
三つのこと
黒沢幸代
私がまだほやほやの担任であったころ、どこで聞いておられたのかある園長先生が、 「先生の言われた三つの注意は、一番大切なことなのですよ」とポツンとおっしゃって満足そうにわらわれました。
私はその晩なかなか眠られませんでした。子供たちに注意した内容をいろいろと考えてみましたが、とり立ててりっぱな話をしたとも思えなかったからです。思いあぐねてもう考えるのをやめようとした時、はっと気がつきました。
園長先生が私に教えようとなさったのは、話の内容ではなく「三つ」というなんでもない−私にはそう思えた−数字であろう、と。なぜ「三つ」がそれほど大切なことなのか、その時にはどうしてもわかりまぜんでした。
近ごろになってなるほど、と思います。「かなえの軽重を問う」という言葉があります。そのかなえは、三本の足で支えられています。一つが欠けても転倒します。遠くは「三矢の教え」から「非核三原則」「交通の三悪追放」など、そういう視点から物事を見ると保育の中核も「健康」「自主」「表現」の三つにしほれそうです。
とすると、「三つ」の言葉というものは、一番子供たちに受け入れやすい−言葉をかえて言うと−ポイントをよくおさえた話し方、又は、効果的な考え方、と言えそうです。
私は今、保育に当たって自分なりに三つの原則を作って努力しています。
一つは「必ず一回は子供たちの体に触れる」ことであり、二つ目は一人一人とよくおしゃべりをすること」であり、三つ目は「草花作りを通して、勤労の喜びや、未知のものへの不思議さを視察させること」です。当たり前と言われればそういう気もします。しかし、案外当たり前の中に、大切なことが隠れているものだと自分で自分を納得させて、頑固にそれを守ることにしています。
毎日交代でクラスをまわり、園児の中に割り込んで昼食をとります。子供 たちは天衣無縫であり、それこそお弁当の中身や、お母さんのちょっとしたへまなどを際限なく話してくれます。
時には、両親の微妙な感情のかげりなどもとび込んで、ドキッとしたりします。「ほら、すごいだろう僕のお弁当」と目を輝かせる子供の姿に、限りない成長の姿を見出して、幼稚園に務めた幸せをしみじみかみしめます。
「だれが作ってくれたの」「どういうふうに」「いつ」ここでも私は三つの問を発します。きれぎれの言葉がやがて正しい言葉を話せるようにと願いながら。
体に触れるということと、おしゃべりするということは、同じに見えて実は同じではありません。本当は手をつないでもらいたいのに、隅の方に隠れて先生の悪口を言ったり、私のスカートを引っ張って逃げて行く子供には、しゃべるよりも、むしろつかまえて抱きあげて、「こらっ、言ったな」とにらむ方が確実に嬉しいに違いないのです。
涼しげなフウセンカズラの実にさわってみたり、おじぎ草を指でつついて葉っぱのしょぽんとしょげる様子に歓声をあげる子供、その間を飛び交う、チョウやトンボを追いまわす子供−−そういう真っ白な心の中に、どういう色を染めていくのかと思う時、ふっと不安がつのる時もあるにはあるが、私はこれからもかたくなに私の信じる三つの道を歩むつもりでいます。
何年も前に卒園させた子供たちが、今でも欠かさず手紙をくれるような、そんな子供に成長してもらいたいと祈りながら。
(いわき市立すずかけ幼稚園主任教諭)
楽しいお遊び