教育福島0065号(1981年(S56)10月)-030page

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随想

 

忘れ得ぬ言葉

大竹成子

「学ぶとは誠実を胸に刻むこと、教えるとは共に希望を語ること」

 

「学ぶとは誠実を胸に刻むこと、教えるとは共に希望を語ること」

この言葉は、第二次世界大戦中、ナチスドイツに占領された自国の独立と名誉を回復するために、民衆の先頭に立って活躍したといわれるフランスの詩人であり、作家でもあり、美術批評家でもあった、ルイ=アラゴンの言葉である。

この言葉に初めて出あったのは五年前、福島市郊外の中学校に新任教員として赴任して数か月たったある日の放課後、職員用図書の本棚であった。書名ははっきりと思い出せないが、数人のエッセイストからなる文章の中の一節にあった言葉である。何気なくひもといた書物ではあったが、教師としてスタートラインに立ったばかりの私の目に、鮮烈な印象を与えた。当時の私は一日一日をそれこそ「教師」という自分に与えられた仕事を自分なりにこなすことで精一杯で、「明日」ということを考えるのは、夕食後ほっと一息ついた後のことであった。だから、当然心に一分の余裕もなく、生徒に対しても、常に糸が張りつめた状態でゆるむ時がなかった。一少しでも、私の意にそわないようなことがあれば怒った。(叱るというのではなかった。)なぜ生徒がそのような言動をとるのかということに思いをめぐらす余裕がなく、焦燥感にとらわれる日々であった。

アラゴンの言葉は、ある意味で、そのような私に警鐘を鳴らしてくれたといってもよい。私は、目先のことにとらわれすぎて、大事なものを忘れかけていたのである。

あれから四年。まだまだ教師としての歴史の浅い私であるが、三年生を担任して、高校の合格発表に一喜一憂したり、二年生を持った時には、ある意味では、一番心の動揺する学年である生徒の気持ちに深く悩んだり…と教師としての四季をまがりなりにも一通り経験したように思う。

現任校に赴任して数か月。一年生を担任している。放課後等の生徒との語らいは、生徒がふだんには見せない心の内面をチラリとのぞかせてくれて、私にとっても勉強となる場である。生徒は、友達のこと、勉強のこと、将来の夢等いろいろと語ってくれる。が、話の内容があまりにも表面的だったり現実的すぎるのに驚くことがある。将来の希望にしても、こじんまりとまとまりすぎているか、又は、超現実的である。勉強についても、結果がすべてという傾向があり、先だっての期末考査においても、関心事は、答があっているかどうかということであり(当然といえば当然だが)“なぜ、自分はここでまちがったか”ということは、二の次の問題である。

しかし、すべて生徒に責めを負わすことはできないだろう。日ごろの私の指導の反映でもあるのだから。

私は、再びアラゴンの言葉を思い浮かべてみた。

点数を取ったり、順位を競いあうことも、おのれの知的内容を豊富にしてくれるには違いないけれども、子供から大人への過渡期にある彼らであるからこそ、豊かな内面を持った人間として成長できるように配慮しなければならないし、自分の未来を、お互いに希望高く語りあえるようにしなければならないだろう。元来、生徒には一人一人無限の可能性が秘められているのだから…。

そして、私自身も教師として歩み出した人生を、「誠実」を胸に刻みながら、私自身につながるすべての人からさまざまなことを、また学んでいきたいと考えている。

(田島町立田島中学校教諭)

 

川辺での楽しい語らい

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