教育福島0065号(1981年(S56)10月)-031page
随想
猿真似
白瀬美智男
もう二か月ほど前のことである。四歳になる長男が私のそばへ来て、筒状にまるめた紙切れを口にくわえて得意そうにした。「おやつ?」と思って見ていると、傍らの新聞を持ち、足を組みはじめた。新聞こそさかさまであったが、それは正しく私が今とっているポーズであった。
口にくわえた紙筒をキューと吸ってフーッとやったときは、思わずふき出してしまった。
子供を持たれたかたなら、どなたも経験ずみの猿真似である。万事この調子で、子供は親を見て成長してゆく。
高校生とて同じことで、知らず知らずのうちに、生徒が先生の仕草や言行を自分のものとしてしまっている場合がある。愛の鞭よろしく生徒を殴るという行為が、上級生の下級生しごきの便法に使われたりするから恐しい。いくら時間がかかっても、殴る勇気よりは、言葉で説得する勇気と根気と自信が必要であるゆえんである。
先ほどの話には後日談があって、このとき以来、せめて子供の前ではタバコを吸うまいと控えていたら、ヘビースモーカーの私が、タバコをやめられたのである。
このときほど、我が子に教えられたという気がしたことはなかった。
この後日談のような例は、最近もう一つ経験している。
私が生徒指導部に籍をおいて数年になるが、交通安全指導では、車で通勤しているため、“汽車通”とか“自転車通”といった生徒の実態にそう指導に欠けるきらいがあった。そんな私に「先生はどうなんですか。安全運転を心がけていますか」という言葉が返ってきたことがある。
そう言われてみると、シートベルトなどは、着装旬間を過ぎると着けずじまいになっていることに気がついた。このとき以来、少なくとも通退勤時は着装しようと決心した。その後なん日も経ずして、ハンドルを握ると着装する習慣が身についてしまった。
私のこの姿を見て、あの言葉を浴せた生徒が、どう感じ、どんな気持ちでいるかは知る由もないが、このときは教え子に教えられた気がしてならない。
“先生も生徒も共に学び合うことが真の教育である”というのが私の持論であるが、これらの経験は正にピッタリの例ではないか。そしてこのことは学習指導面の場合にも言えることであって、研究熱心な先生の下で、まじめに学習に取り組む生徒がたくさん育っている例を、数多く知っている。
こうしてみてくると、今さらと言われるかも知れないが、教育者の使命の大なるを感じて、ため息が出る思いである。
A・ホイットマンが、ある書物の中で、「これだけは子供に伝えたい」と題して、喜び・悪・正直・勇気・信念の五つを挙げている。そして、これらは「実践に移すこと」であると結んでいる。
私も、この考えには全く同感であり特に、実践の必要性を痛感している。
これらの実践の場を、ここ数年来、部活動の指導の中に求めてきたが、今年の夏ほど教師冥利の感を覚えたことはなかった。
私が顧問をしている地学部は、夏休みに海浜にキャンプをはり、夜間観測をすることが恒例にっている。本年は日程の中に、勤労体験学習を経験させようと、松林の清掃奉仕活動を入れさせてみた。
結果は、私が率先することで生徒を動かさざるを得ないものになってしまったのであるが、得意の大声は不要であった。清掃後の美しい松林をながめる生徒の目には、確かに満足感と喜びがあった。
その後の日程の消化が小気味よくなされたことは言うまでもないが、かけつけたO・Bたちからの、お世辞まがいの賛辞や、まわりのキャンパーたちからの賞賛を受けたことは、なにものにもかえがたいものであった。
この種の喜びを生徒とともにわかち合えるためにも、教師として信念を持って生きていきたいと思うのである。
私ほどの年齢になってくると、この先、どの程度生徒と一緒にやっていけるのか不安がない訳でもないが、「共に学ぶ喜び」を、より確実なものにしていこうと、再認している今日このごろである。 (福島県立双葉高等学校教諭)