教育福島0066号(1981年(S56)11月)-026page

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随想

 

灯を求めて

長澤セツ

〈出会い〉

 

〈出会い〉

音楽の教師は、生徒と初めて出会うとき、淋しい思いをすることが多い。

無表情な顔、失敗を極度に恐れる態度、消え入りそうな小さな声……

今回の出会いもそうだった。子供たちが心を開いてくれない授業。指導する私にとっては、とてもつらい、心の重い毎日になった。

〈授業〉

この現状に負けたら、音楽授業の生命ともいえる表現学習は成立しない。子供たちに、音楽の楽しさ・美しさ、音楽の価値を、あらゆる場面、あらゆる手段で訴え続けた。

思いきった奇抜な発想の授業を始める。全員運動着姿、机を取り払っての授業。歌いながらの椅子取り遊び、ゼスチュア入りの歌、床に寝ころんでの呼吸法、飛び跳ねてのリズム歩き、手足を使っての発声、鼻に指を突っこんでの共鳴、リズムカードでのカルタ取りまで……。半分遊び、半分集団訓練の二か月。てれくさくて笑顔になれない生徒に冗談口をたたきながら、生き生きした表情を求めての四苦八苦。

ようやく雰囲気が和らぎ、子供たちに笑顔が見えた。大きな口、大きな声が教室いっぱいに響いた。感激!!

歌う喜びを満喫させてやりたいという私の願いは、同僚の先生がたの理解に支えられ、卒業式、入学式、合唱祭等々と、全校生による合唱の輪を広げることでかなえられた。今では、集会などでの全員合唱も年中行事となった。

どんな小さな灯でも、ともし続ければ、いっかはそれが大きく燃え上がるものだというこの確信こそが、教育を支える力であることを知った。

〈部活動〉

これはなんとも楽しい。生きがいそのものともいえる教育の場である。集まってくる生徒たちは、合唱を愛し、仲間を愛し、大きく伸びようとしている。目が光っている。教師の熱意がびんびん伝わり、力となって跳ね返ってくる。それは恐しいほどの反応であり全面的な教師への信頼だ。いとおしいと思う気持ちと同時に、責任の重さをずっしりと感じる。

昨年の県音楽祭(合唱)に出場したときの生徒の感想文を紹介したい。

「九月二十六日、それは長い長い一日でした。この体験、この感動は、百冊の名作を読むより、百枚の名画を見るより、百曲の名曲を聴くより、今の私にとっては尊いものでした。(中略)

この私の感動をこの上どう説明したらよいのでしょう。言葉がみつかりません。たった一言、すべての人に、ありがとう!」

〈さらに大きく〉

もともと十代は、価値あるものをひたむきに追求する純粋さを内面に持っているもの。だから、力の伸長は無限と信じ、妥協せず、今日はだめでも、明日はできると信じての前進。音楽室前面に「歌は心の叫び」と墨書した標語、その下に「恥ずかしさを克服しよう」の努力点を掲げての指導。

そして今は、合唱を通して、「楽しく、厳しく、温かく」の三つのことばを追求しながら、未熟でもいい、友情の輪を広げ、互いに支えあい、気力いっぱい歌うことのすばらしさを体験してくれればと願っている。

しかし昨今の生徒たちは素直になれず、いじけたり、突っ張ったり、付和雷同したりして、たびたび授業にブレーキがかかる。心が冷める。

でも、仕事をする、生きているということは、絶えず悩みと対決することなのだ。勇気を出して、また新しいステップを考えようと、自らを励ます毎日である。

 

(保原町立保原中学校教諭)

 

心の声がひびきわたる

心の声がひびきわたる

 

 

 


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