教育福島0066号(1981年(S56)11月)-027page
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随想
顔は心の鏡
薄井芳保
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こみ入ったむずかしい話をするときは、決して電話で話してはいけない。面倒だなと思っても、出かけて行って直接ひざを交えて話し合わねば、円満な解決は望めない。すこしの労力を惜しんだために、相互の気持ちが通じあわずに深い溝ができ、禍根を後々まで残すことはよくあることである。
話し合いというものは、必ず相手の表情を見ながら、相手の気持ち、心の動きを感じながら進められていくものである。そして、両者が真に満足して話し合いが解決したときには、おのずから顔にその意志が表われてくるもので、顔はその人の心、性格を表わすといわれている。
道元禅師の語に「和顔愛語」というのがある。
和やかな顔から、愛情あることばが生まれると解し、よい言葉だ、まことに味わいの深い言葉だと思っている。
われわれ人間は社会生活をぬきにしては考えられない存在である。その人間関係をよくするも、悪くするも、相互の顔と言葉とは極めて重要な役割りを果たしている。殊に、毎日四、五十人の子供に接する教師、常に、数十名の教師や、幾百の父母に接する校長の一覧一笑、一言半句は、無意識の中に相手に対して多大な影響を与えている。すべての人に和顔で面し、すべての人に愛語で接したいものと念じ反省のかがみとしてきた言葉である。
顔は、常に万人にさらすものであって、かくす所はない。和顔でありたいものである。
言葉もまた然り。家庭で面白くなかったからとか、職員室で不快な目にあったからといって、受け持ちの子らに校長なら職員たちに八つ当たりするわけにはいかない。消極的なら怒りを移さない態度、積極的なら「愛語を施す」心情になりたいものである。
愛語というのは、正法眼蔵の菩薩四摂法の一つであって、「衆生を見るに先ず慈愛衆生猶如赤子の懐ひを貯へて言語するは、愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐むべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり。
面いて愛語を聞くは、面を喜ばしめ心を楽しくす。面わずして愛語を聞くは、貯に銘じ魂に銘ず。愛語よく廻天の力あるを学ぶべきなり」と説かれている。
子供は純真であるだけに敏感である。教師の顔色、言語から受ける影響がはなはだ大きいことは、日ごろからの体験で分かっていることであるが、教師が不愉快そうな顔で児童の前に立った日は、児童も同時に心配気な、不安そうな表情で対し、その一日がどこか安定性を欠いた一日で終わることがある。
教育愛に燃えるといっても、ただ口先だけの愛情では、子供の心をゆさぶることはできないだろう。本当に愛情豊かな教師の心が顔の表情に表れ、ことばとなったとき、初めて子供の心にひびきを与えるものであろう。
自分の顔を人為的に造作して、あるいは鼻を高くし、眼を大きくすることができても「和顔」を造りだすことは無理であろう。
形は変わらなくても、『和やかさ』を持つことは自分の修養と努力でできよう。
教師として子供に対し深い愛情を持って教育に情熱をかたむけ、自分の心を磨き、厳しく鍛えることで面相が変わるとすれば、時には鏡に自分の顔を照らし、その変化を見て反省する機会がほしいものである。
(棚倉町教育委員会教育長)
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