教育福島0068号(1982年(S57)01月)-032page
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随想
四季寸考
鐵貞雄
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早春
そろそろ雪解けの水の音が高くなろうとしている山に入る。
ウグイスの声もまだ、それほど谷にこだまはしない
そのころ、もう陽あたりの良い斜面の木の根もとのあたりには、イワカガミやカンアオイの花が人知れず咲き始めているのを見ることができる
イワカガミは、華やかで誰の目にもとまるが、カンアオイの花は、それと注意して見なければ、腐葉土や岩や木の根と見分けなどつくものではない。
マンサクの花だって、よほど山好きで、その花を心待ちにしていた者にでなければ、その居所をすぐに明かしてはくれまい。
人を導くという仕事も、一人一人を見つめる確かな目が必要なのだなと、そんなとき考える。
盛夏
アサガオ、ヘチマなど、つるになる植物は、伸び出したらその成長はただ驚くばかりだ。
一週間も放っておこうものなら、人間の意志などと全く関係なしに勝手気ままに伸びて行く。
節の間から、日ごと、つぼみのふくらんでいくのがしかと見分けられる。
地をはうアサガオやヘチマにも趣きはあるが、垣や棚作りによってそれは、随分と違ってくる。曲がったヘチマでは風情がなかろう。
これはもう毎日の教室の風景と同じようなもので、一人一人の子供の持つたくましいエネルギ−を授業という形に組識し、方向づけをしてやることと似ている。
教師の周到にして適切な手だてが、子供たちの姿をかえていくのである。
晩秋
夏の日照りに耐え、精力の強い草々におびやかされ、あの強い雨と嵐にもまれながら、どこにこんなすばらしい生命力を宿していたのであろうか。
キクが庭の隅に頭をもたげ、長身のダリアやコスモスが、花梗をしっかり立て、鮮やかなそれぞれの色を見せてくれる。
厳しい条件の中を生き抜いてきたこれらの花に私は感動すら覚える。
この華やかさはどうだ。まるで自然のひどい仕打ちなど一切忘れている。
人間だって四十人いれば、みなそれぞれ生きた足跡がある。伸びようとした努力がある。そして、違った顔、形、性格を持つ。
そのどれをも、良さを認め、さらにより良い方向へ導いてやるのが教師の使命なのだなと、そんなときふと思ったりする。
初冬
ひっそりとした午後の校庭の一隅に立つ。
サクラが、ウメが、花芽、葉芽をそれぞれにふくらまして、春のあのひとときを待っている。
今にもはち切れそうな充実した芽から伝わってくる生命の鼓動。
その力を貯えていたのはいつだったのだろうか。
花に見とれ、葉の色づきに心を奪われている日々に、木々は明日への力を培っていたのである。
子供たちがとどまることなく成長しているのと全く同じだなあと、そんなとき私は思う。
一人一人に秘められた可能性を引き出す教育という仕事は、根気のいるものだが、楽しいことも多い仕事だなとつくづく思うこのごろである。
(福島市立森合小学校教諭)
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たくましく伸びよ
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