教育福島0068号(1982年(S57)01月)-033page

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随想

 

「あら、先生」

 

横田庄三

 

そわれるように妻と、会津高田町雀林の法用寺にある三重の塔の拝観に出た。

 

昭和五十五年1月の中ごろか、小春日和にさそわれるように妻と、会津高田町雀林の法用寺にある三重の塔の拝観に出た。

参拝をすまぜた石段を下りはじめたころ、下から上がってくる三人の親子連れがあった。母親とまだ小学校一年生になるかならぬかと思われる女の子と妹らしい三人がにぎやかに話しながら石段を上がってきた。近づくに連れて「ハッ」とおどろいてしまった。大きいほうの子が私の学校の一年生、K子であった。

入学式以来、学校では校長にはもちろん担任にもものを言わない、絡食はとらず、運動もできず、上衣も脱げない。担任が話をさぜようとすればするほど、口をとざし、自席にすわったまま、もちろん返事などしょうともしない。休み時間も、自席から離れようとはしない。強制するとますますからだを硬くしてしまう。

(しばらく過ぎてからわかったことではあるが、場面◆黙症とか、選択性◆黙症という症状とか。)

そこで学校としては、機会あるごとに話し合い指導の手だてを講じ、いっぽうでは、県の教育センタ−の相談も受けながら対策を講じたのだがあまり変化は見られなかった。

その子供に、石段の途中で「あら、先生」と声をかけられたのである。母や妹とともにいたという気強さもあったとは思ったのだが、初めて声を聞いたのである。

「やあ、K子ちゃん、よかったね、お母さんとお参りかい」と話しかけてみたのだが、その後は全く話をしてくれなかった。それでも私は心よく家に帰った。

次の月曜日、校長と担任に昨日のことをさっそく話し、

「K子ちゃんはきっと話すようになる」と三人で期待を強くした。

あれから一年、二年生になったK子は仲間と一緒に何でもやるようになり元気に学校生活をおくっている。そんな姿を見て、K子ももう大丈夫という感を深くする。前書きが長くなってしまったが、K子の変容を思うとき、長い時間と担任教師のたゆまぬ努力と愛情がそうさせたのかと思う。教育とは、はだかのつき合いであり、心のふれ合いがなくては成立しないとよく言われることだが、いざ現場に直面すると必ずしもそうはいかず、わかってはいるのだがつい逆な方向にのみ流れがちになる現実を否定できない。K子の変容を見るとき身のひきしまるものを感じている。

去る九月二十七日(日)付の福島民報「日曜論壇」で、会津短大学長の三本杉國雄先生の「教員新採用にあたって」のご提言の中で、現在求められている先生は、夏目漱石の「坊っちゃん」的な先生である。ガキ大将的な迫力でクラスをまとめる先生、問題がおこればそれに体当たりできる自信のある先生、そうした行動はクラブ活動やボランティア活動の経験を積んだ実績の上に立って初めて可能になると結ばれていた。

将来を託された若い先生たちの場合、いわゆる実績や経験はこれから積んでもおそくはないと思う。若さにものをいわぜて信じることに立ち向かう気力が必要ではないだろうか。ややもすると引込み思案となり、後からついていけばというような消極的態度が表れはしないだろうか……と。

いまさら私ごときものがとやかくいう考えなど毛頭ないが、このごろのマスコミ等の報道から、教師の指導力の貧困さが原因でおこるとされている問題等を思うとき、つくづく考えさぜられているこのごろである。

(新鶴村立新鶴小学校教諭)

 

心がかようふれあいを

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