教育福島0068号(1982年(S57)01月)-034page

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随想

 

再出発

 

樋口嘉子

 

どいながらも、新卒三年生だと張り切って指導に当たっているところである。

 

三年前、小学校へ転じた。そして今は、ウンチ・オシツコの世話までやらなければならない一年生の担任である。中学教師だったころに、よそごとと思っていたできごとにとまどいながらも、新卒三年生だと張り切って指導に当たっているところである。

一年生は、ようやく学校という集団生活の中で、友達とともに生きる楽しさを覚え、あらゆるものに参加したいという意欲にあふれたやんちゃ坊主である。教師の下靴のはきかえるのも待ちきれずに、「さあ体操だ」と、群をなして昇降口から駆け出していく一年生。滑り台に、ブランコに、うんていにぶらさがる無心な子供たち。「集まれ」の合図に再び一目散に駆け戻ってくる姿は豆タンクのようだ。ズボンをひきずって豆タンクは走ってくる。そして教師の胸にドカン。共に倒れて人の山ができる。「やめろ」の声など子供の耳には入らない。もがけばもがくほど、山積みの重さがのしかかってくる。

そこには、温かいほほとほほとのじゅずつなぎができる。動かなくなった教師は、初めて重みから開放される。一人一人を強く抱きしめてやりたい気持ちで、さしのべる手から逃げまわる子供たちと教師の間には、いつしかつかみ鬼ゲームが始まっていた。休むひまもなくすぐ鬼にされる教師はくたくた。「休みだ」やっとゲームからぬけた教師は、逃げまどう子供、つかまえることで一目散に走る子供たちの姿を追い見つめていた。「生き者とはこんなにすばらしいものなのか」汚れのしらない子供たち。でも、そこにはもう自我のめざめが始まっている。この子たちの幸ぜのために、学ぶ喜びを味わうことができるように指導していかねばならない。「人間性豊かな児童の育成」というねらいに向かって、一人一人の児童の中に、人間尊重の精神や自然をいつくしむ心を培っていきたい。また、そのことによって思いやる心や社会連帯の意識、公共心、動植物を愛護する心などを育てたい。そのため、日々の教育実践に当たっては、教師自らが深い教育的愛情をもって、児童との温かい心の交流を図ることに努力を重ねていきたいと思う。

日夜授業研究のために努力を惜しまない教職の道は、実に忙しい毎日である。これでよいという仕事の終わりがない。最善の指導法だと思っても、改善されるところがいくらでもあるからだ。余裕があるようにみえても、常に頭の中は、児童生徒のことでつまっているのだ。

「先生、これぼくの子です」どこかで会ったようだと思っていたが、それが、かつての教え子であったとは。うり二つの親子であった。親子二代の教師となると、更に子育ての使命の重大さに身がひきしまるおもいである。

きびしい教師の道ではあるけれど、現代社会に適応しながら生きぬく子供たちを作りあげる教職の道のすばらしさを、あらためて考える。この職業に誇りと自信を持って、子供たちのために最善の努力を払うことを誓いたい。かつての教え子たちも、いまは同僚となり、共に教育の道を語る環境にあることを自分の大きな喜びとしている。

現代っ子の心身の発達は実にすばらしい。でも、動揺の多い時期で精神的不安は実に大きい。子供は、教師の呼びかけの声を待っている。

「どうしたんだ」

「元気?」

わずかな一言でも元気づけられることがたくさんあるのだ。一言かけて励ましてやりたいと思う。

(田島町立檜沢小学校教諭)

 

やんちゃな宝

やんちゃな宝

 

 

 


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