教育福島0068号(1982年(S57)01月)-036page

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随想

 

私の宝物

 

熊田道郎

 

てみると、そのころが一番懐かしく、充実した毎日だったように思われます。

 

K先生、お便りうれしく拝見いたしました。クラス担任として毎日苦闘しておられる様子、痛いほどよく分かります。私も二十五年間クラスを持ち続けましたが、失意と希望の繰り返しでした。担任をやめたいと思うことは、何回あったか分からないくらいですが、今になってみると、そのころが一番懐かしく、充実した毎日だったように思われます。

先日ある新聞で、五十年間国語教育に打ち込んだ女の先生のことを読み、非常に感動いたしました。その教育記録が近く出版されるが、十五巻もの大冊になるということです。三十余年教育に携わりながら、成果はあがらず、何一つ記録を残していない自分を、つくづく恥かしいと思いました。面倒くさがらず丹念に記録すべきであったと強く反省させられました。

私は農業教員としてスタートし、先生と同じ年のころには、農業を教えておりました。生徒に教えるのには、自分も体験しなければならないと考え、牛を飼い、草を刈り、乳を搾りました。授業は実際に自分がやっていることを教えるので、生徒によく理解されたように思われます。空理空論ではなく、地に根を張った教育が必要であると今でも信じております。

三十代も半ば過ぎてから、先生と同じ英語の教師に変身いたしました。レコードを回し、聞き取ったものを紙に書き、これをノートに清書しました。感動したことや、是非教えたいと思ったことを生徒に話せば、それを英文で大学ノートに書きました。幼稚なもので、他人に見せられるようなものではありまぜんが、十五冊もたまると、宝物のようにさえ思われ、捨てることもできなくなりました。これは相当の分量ですが、これだけ書いても、晩学の私には、英語が書けるようにはなりませんでした。

あえて私の誇りとすることと言うならば、それは「海外文通」です。生徒に勧める前にと思い、N・H・Kのテキストに載っていた十歳の少年に、思い切って手紙を書きました。日本から来た三百余通の便りに返事を書かねばならず、やっとあなたの番になったと返信をよこしてくれたのは、それから三か月もたってからのことでした。初めて外国便をもらった時の感激は、三十年を経た今日でも忘れることはできません。その時この手紙と同時に、もう一通の航空便が届きました。「息子の友人ではなく、私の友になって下さい」という彼のお父さんからのものでした。カリフォルニアに住むこのラルフさんとは随分数多くの手紙を交換いたしました

海外文通三千通、そのころ朝日新聞の元日特集号に、こんな記事が載りました。八十歳を越した老婆と、アメリカに住む同年のおばあさんとの手紙による交流五十年を書いたもので、これには感動さぜられました。これ以来、私は手紙魔となり、相手を見つけては手紙を書きまくりました。文通相手の一家がアメリカからやってくる、ということもありました。送られて来た手紙や写真はアルバムに収めましたが、それも幾つかのダンボール箱いっぱいになりました。皆に少女趣味と笑われますが、私にとっては宝物、大事にしまってあります。

先日、屋敷にある一本の老杉を切り倒してもらいました。家や土蔵が近くにあり、電線が張りめぐらしてあるのに見事にやってのけたプロの素晴しさには、感動さえ覚えました。そして、「自分はプロの教育者」と言い得ないことを非常に残念に思われました。

私の体験から、何かアドバイスをとのご注文ですが、自信を持って言うことを持たず、申し訳ありません。先生のお便りにより、いろいろ考える機会を与えられ、心より感謝いたします。

いつも明るく朗らかで、労をいとうことなく、情熱を持って生徒に接し、絶えず読書に精出しておられるあなたこそ、私にとっては、理想の先生と思っております。教員を初めからやり直すことができるものならば、あなたのような先生になりたい、とさえ思っております。

しかし何と言っても健康が第一です。ご自重の上、自信を持ってがんばって下さい。

(福島県立東白川農商高等学校教諭)

 

 

 


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