教育福島0071号(1982年(S57)06月)-027page

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随想

 

剣道部のあゆみ

 

鹿岡主計

 

鹿岡主計

 

私が県立石川高校に用務員として採用され勤務するようになりたのが、昭和三十六年四月のことで、今年四月で満二十一年になる。当時は、全校生徒の中で男子はわずか十五名で、剣道部員は男子六名顧問教師一名の小さな部だった。私は剣道錬士五段ですので用務が終わってから一時間位練習稽古の手助けをしたが、六名の部員が毎日全員揃うことはまったくなく、時には一名、あるときは一名もいない時もあり、練習試合、県南大会にも出場できず困ることもしばしばでした。当時は体育館武道場もなく、体育館が出き上がったのが四十三年、その間、講堂で練習することになっていましたが、室内競技部の練習は全て講堂に集中し、早いもの勝ちと云う状態に各部も困り顧問会議の結果二つの部が交替で講堂を使用することになった。練習に身が入らず、当時剣道連盟の方々と、学校法人石川高校に出稽古に出ていた関係上合同練習を繰返し週二回の練習だった。

こういう状態で部員も減り生徒会から十人以下の部は廃部と宣告され、ついに剣道部、柔道部、野球部が廃部のやむなきに至ったが、自衛官、警察官志望の生徒四、五人と冬夏休を利用して町の武道館で細々と練習を続けた。

五十二年四月、中学校剣道部出身の男女が十四名入学したのを機会に、十年間廃部となっていた剣道部復活の話が持ちあがり、私に部の顧問になってほしいという依頼があった。愛好会でもよいからという生徒の熱意に動かされて早速、生徒会顧問の先生と話し合ったが、復活のメドが立たなかった。しかし、生徒たちは一人もやめるな、とひたすら部の復活を願い励ましあって町の武道館で練習を始めた。初心者もいたため基本中心の練習に励んだ。

これとあわせて剣道部の早期復活を願って生徒達は署名運動を始め、まず各先生方、生徒会室に何度も足を運んでは、復活を請願し、又練習場探しにと生徒達の努力とファイトには、実に涙ぐましいものがあった。その努力が実って剣道愛好会の発足が認められた。しかし、問題は、練習場所である。講堂は卓球部、体育館は各部室内競技部に占められ、剣道部の割込む余地がなく再び練習場探しの苦労が始まった。体育館のステージ講堂各教室廊下と至るところで基本中心の練習を開始した。剣道愛好会は正式の部でないため他の部にも入部しなければならなく毎日の練習が週二、三日に限られてしまい部員が減り再び廃部の意見が強くなり、廃部寸前に追いこまれた。

五十三年四月若手の長谷川弘一先生が着任し、顧問になってから講堂の半面使用が決り再度部員を募集して女子部練習を開始した。合宿には私も稽古に参加し指導に当たり育成に努めた。この年、県南大会、県大会において好成績を納めることができた。翌年四月、念願の部として正式に認められた。

県の教職員代表として全国大会に出場した実績をもつ長谷川先生の厳しい指導に耐えて、連日練習に励み、県南大会県総体大会新人戦に出場するまでに成長した。五十五年四月長谷川先生が田島高校に転任したあとも、後任の佐藤義幸先生のもとで練習に力をそそぎ県南予選女子部三位、県総体大会出場と、男子部女子部も好成績を納めた。五十六年四月郡山北工高より着任の樽川広喜先生が三代目顧問となり、インターハイ県南予選女子部団体準優勝、新人戦県大会団体女子部準優勝、福島県少年剣道大会女子部団体準優勝、と目ざましい活躍となった。五十七年度は新入生も入部し女子部員十九名男子部員九名と大世帯になり、練習にも著しい進歩がみられ今後の活躍への期待は、ますます大きい。

しかしながら二十六年に建築された講堂も古くなり床板が大分いたみ五十六年に一度床板の張替工事を行なったが、応急処置のため現在では、床板が抜け落ちそこにベニヤ板をガムテープで張り補修しながらの練習に励む状態で毎日のように足の怪我が絶えないので本格的な剣道場としての床張替えをお願いしている次第である。もし大怪我でもされては、と心配が絶えない。新入部初心者の基本練習などはコンクリート造りの通路で練習している実状であり、一日も早く補修工事をと願いながら練習に励んでいる今日この頃である。

(福島県立石川高等学校主任用務員)

 

 

 


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