教育福島0072号(1982年(S57)07月)-005page

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巻頭言

 

何も期待せず淡々と

 

田島 優子

 

子供がかわいそうだと思うことも子作りに消極的になる理由のひとつでした。

 

「お子さんはまだですか」 近頃よくこんな質問を受けるようになりました。三十歳近くなって亭主を一人東京に残し、子供も作らず呑気に仕事をしているからなのでしょう。私は母譲りの子供嫌いで、今まで子供がほしいと思ったことは一度もありません。仕事が好きで、一生仕事に打ち込んで生きようと思ってきましたから、子供ができると育児のために仕事を犠牲にしなければならないなど不都合が生じることを思うと、そんなものは邪魔だとしか考えられなかったのです。仕事の妨げにならない形で育てられるなら子供がいてもかまわないのですが、勤務時間が一定せず、大事件が起これば休日返上で深夜あるいは明け方までも仕事をしなければならない転勤族の私が、子供の面倒を見られる時間的余裕はあまりないことを考えると人手を頼って育てる以外なく、それではかえって、子供がかわいそうだと思うことも子作りに消極的になる理由のひとつでした。

ところが最近、その気持ちに動揺が見られるようになりました。周囲の方が、親切に子供を持つべきだ、と忠告してくださるからです。子供がどんなにかわいいかをその方らしくいろいろ説明してくださるのですが、そのお話を伺っていると、少しくらいの苦労は厭わず、子供を持ってみょうがなという気になってしまうのですからその説得力たるや大変なものです。ただ、その中で、子供を産まなければ一人前の人間ではないとか、親の気持ちがわからないので検事として立派な仕事ができないという論理には頷くことができまぜん。子供のいない方の多くは人間として立派な方ですし、子供がいても凡そ親らしいことをしたことがなく、人間としてどうかと思われる半人前以下の者が大勢いることは、誰もがよく知っていることでしょう。また子を持たなければ親の気持ちがわからず、検事として立派な仕事ができないというのは、殺人をしてみなければ殺人者の気持ちがわからないから、検事が殺人事件を立派に処理するには自ら殺人を犯す以外にないという論理に等しく、馬鹿気た言い分だと思うのです。人間というのはそれほど想像力の貧しい生き物ではないと私は信じています。

ある方が言われました。「子供はこの人の子供が産みたいと思ったときに作ればよい」と。最近、私も子を持つ理由はそれでなければならないと思うようになっています。何かの目的を持って子供を作ると子供を私物視して不幸にさせるような気がするからです。

子供は、親とは別個の独立した人格であり、その意志に従ってのみ行動するもので、親の言いなりにはならないといらことを、親は肝に命じておくべきだと思います。人を愛し、その人の子が産みたいと思える日が来たら、何も期待せず淡々と、私も子供を作りましょう。

(たじまゆうこ・福島地方検察庁検事)

 

 

 


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