教育福島0074号(1982年(S57)09月)-033page

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図館員だった有名人たち

 

県立図書館司書

 

菅野 俊之

 

図書館コーナー

 

図書館コーナー

 

「本に囲まれた生活をしていると、ガンにかかって死ぬ確率も高い」(曽根博義「愛書家失格」)という新説があらわれたのには、驚いた。山のように本を積みあげた職場で毎日働いている我身、はてそんなものかしらと、どうもぞっとしない。いささか気になって、太宰治が「津軽」の冒頭で作家の寿命調べをやってみせたひそみに傲って、著名図書館員の行年を調査してみた。結果は長命な人が多く、特にガンの罹病率が高いということもないようなので安心したが、同時に、意外な人物が元図書館員であった事実が多いことに気づいたので、一時の座興として紹介してみたい。

毛沢東は一九一八年、北京大学図書館長の助手をしていたが、さっぱりうだつが上がらず、昇進も遅れたので思いきって他の分野へ転換する決心をした。後に中国共産党の主席として活躍したことは御承知のとおりである。図書館員として失格じゃないと、政治家にはなれないということであろうか。「回想録」を著したイタリアの有名な好色家カザノーヴァは、漁色に熱中する傍らボヘミアのデュックス城で、ヴァルトシュタイン伯爵の司書として十三年間も勤めていたという。

お堅いところでは十八世紀ドイツの哲学者・劇作家のレッシングがいる。彼は、ヴォルフェンビュッテルという小都市の司書官として長年在職し、他館との複本交換や図書の分類排列を計画・実施しており、また自館架蔵の貴重写本を六冊の刊本として出版している。この間に、傑作戯曲「賢者ナータン」を執筆しているが、ヴォルテールの原稿を借りたまま返却しなかったために、どろぼう呼ばわりされたり、彼のやった図書の分類はでたらめでどうもあてにならないという風評が残されており、図書館員になった動機も借金で首がまわらなくなって遂に蔵書を売り払ってしまったので、しかたなく本のある図書館に勤めたのだそうである。

その他、ストリンドベリはスエーデン王立図書館、アナトール・フランスはフランス上院付属図書館、カーライルはロンドン図書館の司書として長年勤務していた経歴があり、それぞれにライブラリアンとしても多大の業績をあげており、特にカーライルは図書館長になっている。変わったところでは、ローマ法王ピウス十一世が元図書館員であったことは、あまり知られていない。

さて、目を我国に転ずると異色の図書館員としては、まず歌手の東海林太郎をあげるべきであろう。彼は早稲田大学卒業後、南満州鉄道に入社、後に鉄嶺図書館長を務めた由緒正しい図書館員なのである。頭髪にコテをかけ、極端に長い燕尾服の正装、直立不動の姿勢で「赤城の子守唄」や、「国境の町」を歌う彼の律義さは、図書館員時代に培われたものではないか、という想像は案外、正鵠を射たものであるのかも知れない。

「分け入っても分け入っても青い山」などの斬新な俳風で、近頃人気を集めている漂泊と乞食の俳人種田山頭火が、東京の一ツ橋図書館員だったことがあるのも意外な事実である。もっともこの仕事は彼の気質にあわなかったらしく、神経衰弱になって二年間程で退職してしまったというが、さもありなんといった印象である。森鴎外は、大正六年に宮内省の図書館長に就任している。名前だけの館長ではなく「天皇皇族実録」の編さんに尽力し、また「帝室洋書目録」を自ら独力で編集刊行しているのである。

ついでに余談として、図書館員になりそこなった有名人を洋の東西から一人ずつ紹介しておこう。

スタンダールはパリの国民図書館写本部に就職しようと猛運動を展開したが失敗し、失意のため遺書をしたためたほどであったという。

また、夏目漱石は五高の教師生活に嫌気が差し、明治二十九年帝国図書館への転職を岳父中根重一に依頼したが、彼の庶幾したように事は運ばず、結局、嫌々ながら教員を続けなければならなかった。この事件が、後に漱石が朝日新聞社に入社して作家として大成する遠因の一つとなったのでは、という推測は、あまりにもうがち過ぎる見方であろうか。

 

 

 


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