教育福島0074号(1982年(S57)09月)-040page

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こぼればなし

 

きびしい残暑が、朝夕のすみきった爽やかさにとって変わった。そしていま、秋のあわれを秋風によって、身に入む季節を迎えた。「秋寂ぶ」も、もうすぐそこに来ている。

八月に友人に分けてもらった鈴虫が、かめの中で日に日に成長してきた。「もののあはれ」とまではいかないまでも、風流の入口に坐する心境でいたいものだ。

虫といえば、和歌の伝統の中では、秋鳴く虫の総称だが、その鳴き音から虫の名を思いつくのは難しいものだ。専門的識見のある場合は別だが、大体はキリギリス、コオロギ、ときて鈴虫くらいをあげられれば上の部である。

 

こころみに、手元の辞書を開いてみる。

 

コオロギ科に属するものは、蟋蟀、鈴虫、邯鄲、草雲雀、鉦叩など、キリギリス科では、螽斯、馬追、轡虫などがあげられている。ところが、キリギリスがコオロギの古称で、コオロギ科の松虫が鈴虫の古称であるに至っては、なにがなんだかわからない。もっとも万葉では、秋の鳴く虫の総称としてこほろぎといっていたものを、平安以後、それぞれの鳴き声を聞き分けて名前をつけたことをおもえば、松虫が鈴虫で、キリギリスがコオロギであっても一向にかまいはしない。

平安時代にキリギリスといったのは、つづれさせこおろぎのことで、「リーリー」と鳴くが、これを風流人は、衣の綴れを刺せと、秋の用意を促すようにその音色を聞いたのである。コオロギは、「コロコロコロコロコホーロギ」と鳴くのだと、真顔で言った友達を思い出す。えんまこおろぎが「コロコロコロコロリーン」と高声に、昼夜を問わず鳴くことをみればうなずけないこともないが、一般にリ音の連続が多いようだ。「リーン」といえば、鈴虫は「リーンリーン」。延喜にさかのぼると「チンチロリン」。ちんちろりんと鈴を振る音色から考えると、案外この方がより現実的で、松風が身に泌みわたるような音と色をもつ「リーンリーン」は、松虫にあてた方がよいのかも知れない。

キリギリスは、土用から初秋にかけて主に昼間、「チョンギース」と鳴く。「ギーッ」と鳴いて一息ついて「チョン」と続くともいう。なにやら、「鶴の恩がえし」の世界を想像させはしないか。別名機織虫。機織女が、まねきを足で踏む音とおさを打つ音に似ているからであろう。

 

カンタンは、八月はじめころからル、ル、ルと単調な、それでいて微妙な音を出す。木の葉かげからしかも月夜に聞くル、ル、ルは頼りなくはかない。「邯鄲の夢」の故事を踏まえているというが、たしかにそんな人生のはかなさもあろうか。

虫で愛敬のあるのは、カネタタキである。チソチソチソと鉦を叩くような単音を発するが、こちらは、響きがない。歌などに「蓑虫なく」というのは、このカネタタキを見間違えたそうな。ちよいとつまんで、掌にもてあそびたい誘惑にかられる虫である。

馬追は、「すいっちょ」。スイスイチョと鳴く。馬飼が馬を追う時に舌打ちをする音から名付けられたという。風流人の風流韻事にしてはできすぎているではないか。

 

がちゃがちゃと、とりとめのないことを書いた。がちゃ・がちゃは轡虫。この鳴き声を秋の夜のくさむらで聞いた時は、ドラ声の気風のよい若者に出会つたような気になったりすると評したのは誰れであったか。これら虫は、二枚の前翅を激しくすりあわせて美しい音色を出すが鳴くのは雄ばかりである。おそらく雌を呼ぶのであろうが、その技術をもたない編集子は、これらの鳴き声をシグマして、「ちょんぎ、ちんちろりんですいちょるよ…」とかなんとか演歌でもつくるしか手がないのである。

 

わが家の鈴虫が鳴きはじめた。その音色がりーんりーんかちんちろりんであるか定かではない。が、その余韻が心にある種のやすらぎをもたらしてくれることは、たしかな事実である。

 

馬追蟲の髭のそよろに来る秋は

まなこを閉ぢて想ひ見るべし

 

 

 


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