教育福島0075号(1982年(S57)10月)-032page
って、よく歩けなかった子でした。先輩の先生が大変苦労して、右足をやや引きずりながらも、なんとか歩けるようになってきたんです。
いまでは、一、二キロメートルの歩行訓練でも元気に歩き通すようになりました。
教室でも、なにか要求したいことがあると、両手であの変なしぐさとともに「ンフンフ」といいながら、私の周りを、ぐるぐる歩き回るんです。それで要求にこたえてやると、キャッキャと喜ぶんです。
最近、朝の会などではきちんと整列しないで、やたらに会場内を歩きまわって仕方がないんですよネ。どうしたらいいでしょう。
D ぼくは、昨年はじめてあの重度のクラスを持ったとき、大学で勉強してきたことがさっぱり役に立たないので困りましたよ。
それで悩んでばかりいられないので、先生方に聞いたり、考えたりしました。結局、一人一人の子に必要な具体的な方法を見つけ出すのが現場では大切なんだなとやっと分かりかけてきました。事例を通して、子供に学ぶしかないと思うんです。毎日がその連続ですね。
E なにをどう指導したらよいのか分からずに、現象だけに追われての指導ながらも、指導のやり方が分かりかけたときはうれしいですね。
H そうなの。長い間かたくなに拒み続けていた子が、指導の途中でニコッと笑顔を見せたときなどはうれしいですね。
A あきらめていたY君、卒業まぎわになってからは黙っていても保健室へ牛乳を取りにいくようになった。しかも、欠席者の分は事前に除いてあるんですが、それが分かるとその分をまた取りにいくようになっていたんです。
R 学校参観日や家庭訪問のときなど子供のことで親さんと悩みを分かち合えたような場合、この教育に携わっている生きがいを感じますね。
司 貴重なお話をありがとらございました。まだまだ話はつきないと思いますが、今日はこれで。
きょうは楽しい誕生会
精神薄弱児との出会い
福島県立富岡養護学校
教諭 稲村忠右衛門
私が新採用の教員として、県立富岡養護学校に赴任してきたのは、昭和五十四年の四月だった。そのころの学校は、アカマツ林に囲まれた三教室ほどの小さな校舎があるだけで、ほとんどの子供たちは、学校から三百メートルほど離れたところにある施設の一部を教室として、学校生活を送っていた。
養護教育に関しての知識も経験もなかった私にとって、子供たちとの学校生活は、試行錯誤の毎日だった。
私の学級には、十名の児童がいた。その子供たちの持つ障害は様々であり更に、子供間の能力差の著しい学級だった。
そんな子供たちの中で、養護教育について考えさせられたり、教えられたりしたのは、重度の精神薄弱児のM君だった。
M君は言葉を話すことも、理解することもできず、歩行さえもしっかりしない子だった。M君は排泄が自立しておらず、毎日もらしてしまい、私を悩ませていた。あるとき、施設の人とのケース会議の折、「M君は施設でももらしてばかりいるのですか。」と尋ねた。
すると、「M君は教えますよ。」と施設の人に教えられた。私は、M君のちょっとした、教師への働きかけを見過ごしていたのである。話すこともできず、言葉も理解することのできない子供だからこそ、私はもっと注意深く子供を見る目を養わなければならないと痛感した。
そのようなことがあってから、M君の排泄を自立させようと思い、ポータブルトイレでの排泄指導を始めた。しかし、なかなか思うように指導ができず、もらしてしまうM君のパンツを洗いながら、「どうしてパンツ洗いまで……」とつぶやくことが多くなってきた。
叱りつけるときもあった。おとなしく気の弱いM君は泣いた。なんと愚かな教師だろう……。どうして、もっとやさしい気持ちを持てないのだろう、どうして根気強くやれないのかと自責の念にかられた。
三学期も終わろうとしているころだった。教室がいやに臭いので、また、もらしたと思い子供のおしりを見て回ったが、誰ひとりとしてもらしている子供はいなかった。教室の片隅に置いたポータブルトイレのふたを開けると大便があった。そのとき、M君がしたのかもしれないと思った。次の日、M君は、一人でポータブルトイレのふたを開けトイレに座った。うれしかっ