教育福島0075号(1982年(S57)10月)-033page
た。とうとう、M君は一人でできたのである。
しかし、M君はポータブルトイレでしかできない。学校で身につけたことが、環境の変化で役立たないものになってしまっては教育の意味がないのでは、という疑問が生じた。
教育とは、子供たちが生活、あるいは生きていく上で必要なことを身につけ、実際の生活で、それらを活用できるものでなければならないと思うのである。
それには、子供の実態を把握し発達の段階を踏まえ、指導を積み重ねる必要があると考える。
何もなかった学校も、現在は、体育館、グラウンドの建設と、教育施設・設備の充実が図られてきた。それに伴い、子供たちの学習活動にも広がりが見られるようになってきた。今年は、新しくできたグラウンドで第三回の運動会が、父母の学校への関心を示すように、多くの参加者のもとに開催することができた。開校当初は、養護教育に対する父母の関心も低かったが、年ごとに、期待、関心が高まりつつある。
父母の期待、子供たちを少しでも成長させたいという願い、これにこたえるのが我々教師なのである。
私は精神薄弱児と出会って、子供たちに次のよらなことを教えられた。
一、観察する目を養うこと。
二、どんなことがあってもいら立たないこと。
三、根気強い精神を持つこと。
四、子供にとって必要と思ったら、実行ずることのできる行動力を持つこと。
五、自分の指導に対して、常に自問すること。
これからも、子供たちに教えられることがまだまだあるだろう。子供の心を大切にした指導に心掛け、子供の成長とともに、私自身もより人間性豊かな教師になりたいとつくづく思う。
どのふうせんにしようかな(運動会)
一人一人の子供との触れ合いを大切に
福島県立平養護学校
教諭 安藤民子
重度・重複障害児の歩みは遅々としているが、可能性を最大限に伸ばしてやりたいと考えるならば、子供の能力や興味に合わせたカリキュラムを作っていかなければならない。
しかしながら、これらの子供たちの指導に当たる際の基本的な考え方だけは変わらないと思う。まず第一に、子供のありのままの姿を受け止めるように努めることである。つまり、はじめからあれをしてはいけない、これをしてはいけないというような態度はとらない。
また、障害の重さにばかり目を向けることはやめる。そして、子供が「この人は、自分を受け入れてくれる、自分をかわいがってくれる人なんだ」ということを肌で感じとれるようにすることが大切である。そのためには、子供に対してのことばかけや表情で示すだけではなく、スキンシップも交え、その子供の能力に合わせた人間的な触れ合いを心をこめて行うことが大切なのではないだろうか。
第二には、子供と親しい関係ができてきたら、今度は、子供について正しく理解するように努めることである。そのためには、病歴や生育歴については、もちろんのこと、親の養育態度なども知っておくべきであろう。また、医療施設に入所している子供が多いので、医師や施設の職員からも情報を得るようにする。更に、以前の学級担任からもじかに話を聞くことも必要ではないだろうか。このようにして得た様々の情報や資料を集めると同時に、それ以上に自分の目と耳で、子供の行動を客観的に多角的に観察し、対応を考えたとらえ方をしていくことが必要であろう。
第三には、子供の現在の姿に目を向けるだけでなく、少し先を見通した指導目標を立てることが必要だと思う。一例をあげてみると、子供の手指に鈴をつかませると、鈴を振ることができる。
それでは、次に「ガラガラ」や「カタカタ」などをつかませたとき、振ってくれれば、十分な指導であるかと考えると、やはり、それだけでは進歩がないのではないだろうか。だから、次には、子供の手につかませなくても子供が自ら鈴をしっかりと見つめて、手を伸ばしてつかむことができるというよらに、子供自身の意欲を高めていくというような目標を立てるべきであろう。
第四には、子供の目標が決まったら前にも述べたように、一人一人の能力