教育福島0075号(1982年(S57)10月)-034page

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に合わせた人間的な触れ合いを大切にし、それぞれの子供に合った教材、教具を工夫して、子供が生き生きと活動できるよう導いていくことが大切であろう。

また、教師と子供の人間的な触れ合い以外に、子供同士のかかわりの中でも子供は、様々なことを影響しあい、学びあえる。しかし、重度・重複障害児の場合、教師と子供のかかわりを深めることを十分に行わなければならないと思う。

私なりの重度・重複障害児教育についての大まかな考え方を述べてみたが実際の指導では、まだまだ理想通りにはいかないが、少なくとも学習時において子供が自ら生き生きと活動してくれるときというのは、今までの経験ではまず、教師と子供の温かい触れ合いが保たれている場合であり、子供の能力や興味に合った教材・教具を適切に与えることができたときであった。また、子供が与えられた課題について、自らの力を精一杯発揮し、やり遂げたときであった。

このようなときの子供の目の輝きのすばらしさはもちろんのこと、時によっては、普段あまり使わない手を無意識のうちに動かしていたり、ほとんど発語のない子供の言葉が聞かれたりといらような思いがけない結果が得られたこともある。

このように、まず、子供が生き生きとした気持ちで学習できる人間的な環境をつくることと、できるだけ、自然に遊んでいるような学習形態をとり、思わず何かができてしまうというような指導を工夫してしていくことが重度・重複障害児教育において大切なことであると思う。

今後も微力ながら、出会いのもてた子供たちの幸せにつながる教育ができるよう日々の努力を怠らず、また、決して、自己満足で終わってしまうことのないよう謙虚に日々の活動を大切にしていきたい。

 

「カエル、かわいいネ」

「カエル、かわいいネ」

 

ある失敗

 

福島県立須賀川養護学校

教諭  石 井 康 子

 

昭和四十八年十一月二十日付け、政令第三百三拾九号をもって「学校教育法中養護学校における就学義務及び養護学校の設置義務に関する部分の施行期日を定める政令」が制定された。これまでは、「障害が重い」ということが就学義務の猶予、免除措置の正当な理由として通用してきたが、この政令が転機となって、学校教育が重度・重複障害児への義務制化にそって動きだすとともに、保護者からの要望もさらに強まってきた。

私の仕事場である須賀川養護学校若草学級は、そうした子供たちを対象として昭和四十九年度に開設された。

当時の担当者は、手引き書もなく、嵐の海に小舟をこぎだすような苦労をし、そうした中で重度・重複障害児に関する教育的対処の基本となる考えをつかみとってきたようである。

私は、二年前、本校に赴任した。そのとき担当した子供の一人がT子だった。T子は、「トランポリンに乗る」「おじいさんやって」などと言葉で要求する子であったが、トランポリンはA室の小型のもの以外はうけつけなかった。

そこで、B室の大型トランポリンにも同じように乗れるようにしょうと考えて、T子の好きな歌をうたってやりながら、B室へ移動し、機をうかがいつつ乗せようと試みるが、きまって泣きさけび、暴れるという状態を繰り返す日々が続いた。

同僚から「そんなに無理をしなくても……」といら意見もでたが、私にはT子との心の交流があり、強い信頼関係で結ばれているといら確信があってあえてこの試みを続けた。それからしばらくたって、B室に入ると泣くこともあったT子が、泣きもせず、暴れもせず、トランポリンに横たわって笑みを浮かべる日がやってきた。私としても、苦労のしがいがあった。と内心うれしさをおさえることができなかった。一年近く費やしたのである。

しかし、この行動拡大の成功のよろこびもっかのま、親しい同僚から「ぼくはチンパンジーと話ができる」(亀井一成、PHP、一九七六)を読んでみて、と手渡されたのである。

読みはじめて、すぐ、ハッとする情景の記述にでくわした。動物園に象の飼育係として採用され、初仕事が、購入した象を駅から動物園へ移す仕事だった。「(飼育主任の)松村さんは、私に象を乗せた貨車が東灘駅に到着する日と時間を告げ、駅で待つように言い残して(象の積み荷先きの)金沢へ発って行った。……約束の時間に駅へ

 

 

 


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