教育福島0075号(1982年(S57)10月)-037page

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随想

 

体験の大切さ

山田直義

 

承が行われることを考えれば子供の体験の減少は、気になるところである。

 

砂遊びや泥いじりは、幼児の特権であり、創意工夫の場でもある。小学生にとっても、広場での遊びが、創意工夫の場であり、人間関係を学ぶ場でもある。遊びや日常の生活を通して文化の伝承が行われることを考えれば子供の体験の減少は、気になるところである。

昔の遊びが、見直されてきたのも、体験が人間形成に大きく役立っていることを再認識したからであろう。テレビにかじりついている子供の姿からは生き生きした未来をつくり上げる姿が浮かんでこない。その点、新教育課程の実施の趣旨を生かす面からも体験を通して、子供の人間形成を図っていくということは、当を得たものといえよう。

最近、学校においても体験的な行事の試みがなされるようになってきた。異年齢集団による清掃活動もその一つである。いわゆる縦の関係で人間形成を図ろうとするものである。本校も縦割りの班で清掃活動をしている。てきぱきと清掃する班、もたもたしている班など、様々である。上手にできる班は、班長のリーダーシップのとりかたがうまい。なによりも、班長が率先垂範して活動するので、下級生がついてくる。班長になった六年生は、グループをまとめるのにどのようにしたらいいのか悩んだすえに、自分なりに班長のあり方をみつけるのである。自分が一生懸命にやり、思いやりをもって接すれば、下級生から信頼を得てグループをまとめることができるし、また、五年生は、六年生を見習ってその良い点を受け継いでいくのである。

これは、異年齢集団の良いところであって、同年齢集団にはあまりみられないところである。清掃活動だけでなく、業間活動の遊びの時間、花壇の世話など、縦割りの活動を生かす場はかなりあるので、できるだけとりいれて児童の人間形成に役立てたいものである。

さらに本校では、五十五年度、五十六年度の二か年間、地域ぐるみで、県教委の指定を受けて、「勤労体験的学習」の研究をしてきた。農山村という環境にありながら、子供たちは、作る育てるなどの実習的、体験的なことが少ない。六年生でも満足にくわを使える子はほとんどいない。見ていてハラハラしどおしである。その中で、S男のくわ使いは抜群にうまかった。彼は将来の進路を「家の後を継いで農業をする」とすでに決めている。彼は、言葉だけでなく、学校から帰ると、毎日農作業の手伝いをする。彼のくわさばきは、そこで身についたものである。彼のくわは、土をしっかりつかみ、しかもリズムにのっている。父親とともに汗を流しながら身につけた技術であろう。

彼のくわ使いからみると、他の子供たちは同じ六年生とは思えない。ふりおろしたくわは、はじきとばされて土をつかむことができない。手だけでくわを使っているからである。彼は全身を使ってくわをふりおろす。この技術の差は、体験の差であろう。中学生になったいまも、彼の目的は変わらず、真夏の太陽の下で農作業の手伝いをしている。目的に支えられた彼の生き方はさわやかである。

体験は多くの言葉を必要としない。友達と力を合わせて土を運ぶ中に思いやりや協同性がはぐくまれ、草花を世話することを通して、生あるものへの愛しさを感じる心が芽生えてくるのであろう。

童師一体となって流す汗に、児童と教師の心のつながりがでてくる。体験を共有することは、教師と児童、児童相互の理解を深める最たるものであると考える。

また、体験を教科に関連させることによって、教科のねらいを有効に達成させることができる。例えば、作文に関連させた場合、概念的な言葉でなく自分の言葉で表現するので、生き生きとした作文になる。

このように体験のよさは、できたうれしさもさることながら、自分が体感した、参加した満足感にあるのではないだろうか。たとえ失敗しても、自分が挑戦した充実感は残るであろう。

いままでの教育活動を再吟味して体験的な学習を工夫し、児童一人一人に充実感を味わわせる教育活動を目指して取り組んでいきたい。

(磐梯町立磐梯第一小学校教諭)

 

 

 


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