教育福島0075号(1982年(S57)10月)-039page

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随想

 

無趣味な趣味

鈴木辰久

 

ナニナニです」と答えて、相手の好意に報いたいものだと常々思っている。

 

元来、無器用、無趣味な私にとって「趣味は?」ときかれると、「純粋戦中派には、趣味を持つ余裕などなかったもんで……」などと答にならない答えになってしまう。その時の相手がことの外意地悪く感ずるのは、こちらのひがみとは十分悟っているが、いつかは、すっきりと、「私の趣味はナニナニです」と答えて、相手の好意に報いたいものだと常々思っている。

このような願いと、知人の勧めもあって、五、六年前、サツキのさし木をすることになった。やがて発根し、早いものは、三年目には身のほども考えないで、花を咲かせる性急なものもあった。これが今では、五十鉢近くなり時期がくると、それぞれの品種の特徴を「花」に表現するようになった。年ごとに開花数が違うのが気になるが、これも丹精の度合と、管理技術の巧拙が微妙に反映している。そして、近ごろは、何故か一鉢一鉢が、一人一人の生徒の表情と重なり合ってくるのは、教師の感応なのかと、妙なところで自己観照の昨今である。

ひと口に管理といっても、灌水、施肥、整枝・せん定、植え替え・植えつけ、病虫害駆除、置き場所選定、台風対策などあるが、共通していることは適当な時期に、適切な手入れをすることであり、中心は作業である。「こうしよう」ではなく、「こうやった」でなくては、開花に結びつかない。

灌水にしても、時刻、量、回数は、こちらの気分ではなく、天候、鉢の大小、木の状態などによって一定しておらず、各鉢の全体の表情で決めなくてはならない。これを見究めるには、各鉢との接触の回数、時間を多くすることである。

しかし、いくら灌水に専念しても、用土が不適当なものでは、順調に生育しない。排水性、保水性という相反する性質を合わせ持つ鹿沼土などが適当であって、用土を含めて、用途に応じた用具が必要である。

施肥ほど、時期、量に「適切さ」を求められるものはない。春にやらなかったから、秋にまとめては効かないのであって、施肥過量によって枯木にしたのも何本かあった。質的には、三要素を均等に含むのも効果はあるが、状況によっては、均衡を崩したほうが、効果がある場合がある。

苦手なものに、整技・ぜん定がある。開花末期から、一斉に根、幹、技から芽をふき出し、勝手放題、八方伸びの状態を見て、思案するのが毎年のことであるが、これは、樹形像が、定まらないために、木の心が決まらないからである。前年の心が、今年の心にならないのが初心者の弱点であるが、樹形が整え、心が決まれば迷わずにすむ。

しかし、他の枝を押しのけ、樹形を乱し、伸長度の速いものに、徒長枝がある。これは一目瞭然分かるので、遠慮なく切り落し、全体のバランスをとることにしている。

開花数も少なくなり、木全体に勢いがなく、生彩を欠けば、植え替えを待つ鉢である。根を上げて見ると、鉢底一面に密生の状態になっている。根を丹念に水洗いし、無駄な根毛を切除し植え替えれば、再び生気を帯びてくるようになる。

この外に、病虫害駆除、台風時を含めての置き場所の管理もあるが、要は時宜を得た、適切な対応が求められるのは他の作業と同じである。

六月の開花を期待して、それぞれの時期に適した一連の作業を通じて感ずることの一つは、「育てる」ということは、相手が生物、無生物を問わず、働きかける実践力と、共に育つ精神力が要求されるということである。もう一つは、水やりに過不足ないか、徒長枝をもってないか、施肥量、質は適切か、台風対策は、日当り・通風性の良い場所か、など語りかけると、いつの間にか鉢の周りに生徒が見え隠れしているということである。

こういう訳だから、趣味の定義が「専門としてではなく、楽しみとして愛好する事柄」(岩波国語辞典)とすれば、私のサツキの手入れは、趣味とはほど遠い。したがって、他人様より「趣味は?」ときかれると、言葉を濁し、相手が意地悪く見えるのは、以前と同じであって「趣味はナニナニです」とすっきり答えられる願いは、当分かなえられそうにはない。

(福島県立郡山女子高等学校教諭)

 

 

 


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