教育福島0076号(1982年(S57)11月)-023page

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随想

 

人生と「出合い」と

鈴木不二男

鈴木不二男

 

いつまでも強烈な印象を持続させる「人との出会い」は、少ないと思う。むしろ、なにかの折りにフト思い出し改めてその出会いの持つ意味の重さに気づき、考えさせられることの方が多いように思う。わたしにとっても、そんな出会いが人生の重大な時期にあったことを思うたびに、そんな出会いに感謝せずにはいられない。

小、中学校時代を通じて、転校生であったわたしは、ある意味での問題児であったように思う。その反発からか「教師」という職業に対し悪い印象を持つようになり、将来「教師」にだけは絶対にならないという信条を持つようになっていた。今、「教師」としての二十数年を振り返って、自信と展望を持って歩んでいる自分を思うとぎ、それはこの「出会い」にあったのだとしみじみと思うのである。

自分の意志に反して、教師になるための大学に進む。講義の中になにかを見い出そうと努めたのもはじめだけ。失望の連続。現実から逃避する無気力な生活の中で、ただ、理想だけは捨てされず、退学か継続か思い悩みながらの捨てばちな生活を過ごしていた。あるとき、夜を徹しての人生講義の中で、Nの言った言葉が心につき射さった。平穏な生活の中であれば、聞き流していたであろう言葉ではあったが、わたしには痛く響く言葉であった。

「現実をしっかりと見極めることから理想は実現される。」

空虚な理想論や怠惰に毒されていたわたしにとって、立ち直りのきっかけを示唆してくれる言葉となり卒業までこぎつけた。

教師への第一歩は、友人のNとの出会いによってであった。

しかし、教師にはならなかった。会社勤めの一年。遠縁に当たる校長に会った。会社に失望しかけていた頃である。子供たちの可愛さ、教育の楽しさ、ただ聞き役に回るだけだったが、「これからは、教育の時代だぞ」怒りのような響きを持った語気であった。「自分を手本にしろ、自分の陰の部分を追い出してみろ。教師が一番だ」

いつか、教師へ傾いていった。高不邁な使命感などではない。自分の生き方のかけの一つのような思いであった。教師「デモ」にかけてみようと思っていた。

「教師」への二歩は、この校長によって踏み出すことになった。

今、振り返って見て、わたしの人生は、自分の意志によるところがなく、全て他の人によって決められていたように受けとめられ、意志薄弱な人間よ哀れな人生よ、と笑われるかもしれない。仮にそれを認めたとしても、この「出会い」の人々に対する感謝の気持ちは変わることはない。思い出すたびに懐しさも含めてこの気持ちが大きくふくれあがり、「教師」への自信となり励ましとなって返ってくるのである。

「教師」への道を進むわたしにとって、決して忘れることのできない別の「出会い」があった。それは、他の人にとっては当然な出会いであろう生徒たちとの「出会い」である。

不安な気持ちを抱いて赴任した小学校の二十一名の生徒との出会い。中学校に変わった五年目の、四十一名との出会い。「育ててやる。」ではなかった。自信を失いかけたとき逆に励まされ、わたしを「教師」として「育て」あげてくれた生徒たちとの「出会い」であった。教師として、やっと芽生えかけた自覚や、教えることに喜びを感じる心の動きを確かなものにしてくれた生徒たちとの「出会い」が、「教師」としてのわたしの人生を支えてくれたのである。

担任した生徒、同僚との何気ない、しかし、定められた「出会い」の中で生きる道をはずれずに進んでくることができたのである。

出来そこないの「教師」なんて、と思っていた人間が、今、その「教師」に生きがいと喜びを感じて生きている。こんな自分を思うとき、なんということのない「出会い」の持つ重さと今までに出会った人々や生徒たちとに感謝せずにはいられない気持ちで一杯である。

さらに、新しい「出会い」を期待しつつ、「教師」として成長していくであろう自分を見つめてみたいと思っているのである。

(須賀川市立大東中学校教諭)

 

 

 


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