教育福島0076号(1982年(S57)11月)-025page

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随想

 

H先生との出合い

 

阿久津健吉

 

阿久津健吉

 

教員になって三年目だったと思う。今からざっと、三十年も昔のことになる。先輩の紹介で、辺地に住むH先生を尋ねたことがあった。先輩の言うには、このH先生は生まれ故郷にある分校を、なんとかして独立校にさせたいため、校長を辞めて故郷の分校へ転任していかれたそうだ。

土曜日の午後早目に出発したのに、分校に着いたのは、秋雨の降る夕暮れ時であった。窓ガラスの電灯の光を見て、すぐに分校とわかった。若い先生三人を前にして、通信教育の講義中であった。すばらしいことだと思った。

H先生は奥様と二人だけの生活だったと思う。とにかく、初対面なのに心から歓待されていることが、十分肌で感じとれて嬉しかった。その夜は、一晩中語りかけてこられ、緊張と感激で朝まで一睡もしなかった。

知恵おくれの子たちを教育している人々のいることも、この夜、初めて知った。「ぼくの親友M君が、O学園の園長をしているんだ。どうだ、行ってやってみる気はないか。」と問われた。わたしは、なんの抵抗もなく、即座にやりたい旨の意志表示をした。

帰ってからも、すっかりその気になり、年度末人事を待っていたが、残念ながら実現できないでしまった。しかし、それ以来、心から離れなかったのは、「知恵おくれの子」のことであった。転出先の各校にも、知恵おくれの目立つ子がいたが、傍観しているだけで、なす術を知らなかった。思い出すたびに心がせめられてしかたがない。

県南の中学校に勤めていた時、学校では一言もしゃべらないという男の子がいた。諸検査に応じなかったがおそらく知能も低かったと思う。少しでもしゃべらしたいと話し合って、あれこれと手をつくしたが成功しなかった。

当時、わたしは学校の近くの町営住宅に住んでいた。裏手に杉林があり、生徒の近道に利用されていた。彼も登下校に、この杉林を通りながら、わたしの家を彼なりに観察していたのであった。日曜日の朝、玄関の郵便受箱に川魚やどじょうが、よく置かれてあった。しばらくの間、だれの仕業なのかわからなかったが、ある朝のこと、玄関から立ち去る後ろ姿を発見し、彼であることがわかった。

次ぎの日、学校で、「いつもありがとう」と言ったら、彼はニコリと笑った。それ以来、日曜日の訪問は多くなり、校外でならわたしとしゃべるようになった。彼が卒業する年であった。卒業後は姿を見せなくなった。

わたしも転出したので、それっきり忘れていた。五年目の春、耳慣れない声の電話があり、彼であることを確めるのに時間がかかった。わたしの一方的なおしゃべりで終わった。彼はどうして、住所や電話番号を調べたんだろう。そんなことできる彼ではなかったはずだ。なにかあったのではないか。それなのに、一方的に、しゃべりまくってしまったことを悔まれてしかたない。

それ以来、彼からの電話はこない。

今考えると、この電話がわたしの心の底に眠っていた。「知恵おくれの子」を呼び起こしてくれたのだと思う。わたしが真剣に知恵おくれの子とかかわりたいと思ったのは、それから間もなくであった。施設内の特殊学級に勤められるようになった。H先生に意志表示したことが、この時、ようやく実現したのであった。

最初の教え子は、もう二十五、六歳になっている。割合と障害の軽い子たちであったため、六名も就職できた。大なり小なりの問題はあったが、みんな元気に生活している。女の子一名は結婚したが、他の者はまだである。

就職できそうな子が施設に入る場合ほとんどの子が家庭的に恵まれていない。よって、就職後も保護者に頼ることを期待できない。やはり、理解ある雇用主をさがさねばならない。知恵おくれの子にとって、理解ある雇用主に巡り会えるかどうかが、社会自立へのカギになるといっても過言ではないと思う。

遠からずして結婚話も出てくれだろう。身近かにおられる人たちにとりては、あまりにも荷が重く感じる時もあると察しられる。わたしも、できるだけ荷を軽くするように、かかわりを持ち続けたい。そうすることがH先生への本当の意志表示かもしれない。

(福島県立猪苗代養護学校教諭)

 

 

 


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