教育福島0077号(1982年(S57)12月)-021page

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随想

 

複式一年目

 

高島 仁

 

高島 仁

 

思えば、昨年の十月、教育実習のことである。四年生で三十二名の学級であった。

その最終日、子供たちが、お別れ会を開いてくれた。歌あり手品ありコントあり、楽しく会が進んで最後にみんなでお話をすることになった。

「先生、どこで先生になるの?」

「福島県、知ってるかい。そこでなりたいと思っているんだよ」さっそく、地図に群がる子供たち。

「東京から遠いね。福島って、いなかなんでしょう。まあいいや。本物の先生になれるようにがんばって」

この時、子供の言った、「本物の先生」とは、教育実習生ではない先生とい、う意味であろう。

教育実習は、三週間という短い期間である。教育を志す者なら、だれでもすべてにがむしゃらに取り組むであろう。私も、徹夜で教材研究もしたし、休み時間に引っぱりだこになりながら大いに遊んだ。そして、やっと軌道に乗ってくるころには、三週間は終わってしまう。子供たちの前に、突然現れて、突然消えてしまうのである。「本物の先生」は、そんなことはない。一年中、子供たちとともに歩むものである。以来、私はこの何気ない一言に向かって、がんばることになる。

それから半年が過ぎて、三月中旬、小川小学校戸渡分校に採用する、という通知をいただいた。その後、三年生一名、四年生三名の複式学級の担任になる、ということも知った。その日まで、教育実習でのったない経験を土台に、「本物の先生」になったら、こうしょう、ああしようと考えていた自分にとって、脳天をガツンとたたかれたような衝撃であった。一瞬、血の気がスーツと引くような思いであった。恥ずかしい話であるが、いわき市に複式の学校があるなどと、夢にも思っていなかったのであるから、なおさらである。果たして自分に勤まるのだろうか、という不安でいっぱいであった。

かくして、四月六日、私は初めて教壇に立った。八つの瞳が、私をじっと見つめる。たった八つの瞳ではあるが八十の瞳にも勝るほどの緊張感につつまれた。

その日からは、私にとって、すべてが勉強であった。子供たちに教えながら、私も勉強するという貴重な授業が続く。教員一年目、プラス複式一年目ということで、勉強することは山ほどある。発問・板書のしかた。話し合い活動をどうするか、直接指導と間接指導、「わたり」や「ずらし」などの複式指導法…。先輩の先生方の御指導をいただきながらも、今でも頭の痛い毎日である。

さて、わが四名のギャングエイジたちは、今日も元気に登校してくる。通学班は二つである。朝の会話が始まる

「先生、来る途中、リスが木の上にいたよ」

「私、マムンのちっこいの踏んづけそうになつちゃった」

「マムシはちょっと苦手だなあ。先生、リスのほうがいいなあ」

マムシとは物騒であるが、それでも自然に触れながら登校する子供たちは都会の子供に比べたら、はるかに恵まれている。春にはワラビやフキとり大会、夏のイワナ釣り大会、秋のイナゴとり大会、学校を一歩出ると、そこはもう自然とのふれあいの場所である。こういう時は、決まって子供が主導権を握る。子供に教えられる。フキのある場所、ワラビのある場所…。

さて、授業開始。私と子供たちの悪戦苦闘の時間である。

「先生、今まではこうしてたのに」

「今までは今まで、今日からこうしなさい」と意地を張る私。その後、しばらく熟考して

「やっぱり、今まで通りのやり方でしていいよ」となることも、ままある。いい方法は続けていかなくてはと、ここでも教えられる私である。少人数であるから、一人一人を見つめて、その能力に合った指導をしたいと思っているが、まだまだ余裕のない毎日である。

あの日、子どもの言った「本物の先生」になることができた。しかし、私は『本物の「本物の先生」』になるために、奮闘努力しなければならないと思っている。

(いわき市立小川小学校戸渡分校教諭)

 

 

 


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