教育福島0078号(1983年(S58)01月)-044page

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こぼればなし

 

本誌も、あと一号で昭和五十七年度分の発行を終える。そして今、迎える来年度の編集計画を、表紙・グラビア・題字・巻頭言一提言・特集……と順を追って立案する時期がやってきた。編集子の心がけるのは、いつも、読者にとって有用の記事の発見であるが、狭い見識からくる編集子の意図が、素直な形で読者諸氏に迎えられるとは限らない。せめて、

「まあ、こんなもんだろう」くらいの叱尾の範囲で意を得たいものである。

表紙絵を多色刷りにしてから三年になる。「ふるさとを描く」「ふるさとの山・川」「福島の四季」というような主題を設定して、教育現場の先生がたに絵筆をとっていただいた。それぞれが思い出に残るものであり、一枚一枚が読者諸氏にある種の共鳴を与えた作品であったと思う。この中には、昭和五十五年一月号に「洋の曙」を描いていただいた田野入正人先生には、表紙絵が印刷になる前の、暮れの十三日に不帰の客となられ、奇しくもこの表紙絵が絶筆になってしまったことなどがあり、ぬぐいさりがたい記憶の一つである。また、多分に抽象的画法を専門とする柳沼定雄、小原久男先生などは、編集子のゴネ押しに苦笑しながらリアルな風景を描きあげてくれた一場面もあったりして、こと表紙絵に関するエピソードは枚挙にいとまがない。

ところで、表紙絵について編集子があたためていた構想は、一人の作者の心象を一年間追うことができたならということである。「教育福島」誌的雑誌が、商業誌と異なるのは、本誌の場合、一方的に執筆者の協力と理解の中で生まれてくるということである。商業誌ではその必要がない。だとすれば、今どき、協力と理解の範囲で絵筆をとってくれる作者はいるだろうか……。だがまてよ。

昭和九年、=十一歳で二科展入選。以後十七年まで連続入選。この間、昭和十五年には、文部省皇紀=六〇〇年奉祝展に招待出品、神戸三越で初めて個展を開く〇二十年十月には、戦後初の個展を郷里福島で開いてから今日まで福島市に在任。二十二年から四十七年まで、福島県立高等学校教諭として多くの教え子を育てる。大正二年、福島市生まれ、仙台商業学校から神戸洋画研究所へ、ここで故浜田藻光氏に師事、水彩画を故別車博資氏に学んだ。−米倉見氏である。

氏は、教員を辞めた四十七年に、三越本店美術特選ギャラリーで、草枕墨彩展を開いて話題をよんだ人。以後、「奥の細道」・「山湯去来」・「相馬野馬追」・「陸奥山河」・「羽越有情」・「京第一輯」墨展彩をやつぎばやに開き、編集子の知るかぎりでも、この十年間に全国各地で二十回におよぶ墨彩展を催している。昨年は、米倉免墨彩展(十月、保原町)、米倉免墨彩画展(十一月・東京三越)をもったことは記憶にあたらしい。また、昭和四十三年には、保原町の名刹長谷寺の壁画に着手、五年の年月をかけ、「一切経蔵内四面油絵壁画釈迦」(二・二六メートル×二十一・○○メートル)を完成させている。この精力的なものは、氏のどこからでてくるのだろうか……。

「私の絵は、この和紙の精と筆致でできてくるんです。福島県ではいい和紙がっくられているんですが、このままの状態では、だめになるのが目に見えているんですよ。保存をネ、保存についてもっと真剣に考えないとネ……」と目を細める。和紙の研究でも一流の人。そういえば、旧臓、氏の収集した千点を越える玩具を保原町に寄贈したことが報道された。年に何回か、子供たちにおもちやの話をしてやりたいという。和紙の保存をうったえる一途な心。子供を相手におもちゃ談義をしょうとする純粋無垢なこころ。氏には、剛と柔とが同居している。そして、この「やおらかさ」と「かたくなさ」のスパークこそ、氏のエネルギッシュな創作活動の点火剤なのかも知れない。

今年、氏は、また、「奥の細道」を探究するという。表紙絵には、十回にわたり、氏のこころを伝って「芭蕉の心」が配達されるはずである。それは、点から線への絵巻の世界になるのであろう。鶴首というのは、多分にこんな心境のときにこそ使われることばであるにちがいない。

それにしても、新しい年−一月を迎え、昔流にいえば一つ歳を重ねたことになる。一月はまた、一年のたびだち、年の顔のとき。希望にみちあふれた出発をしたいものである。学校での一年は、四月から三月まで。これからが最後のしめくくりのときになる。健康で豊かな血潮が、児童生徒一人一人の体内に充満しているおわりであって欲しいものだ。

 

絵筆をとる米倉 克氏

絵筆をとる米倉 克氏

 

あとがきにかえて

 

 

 


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