教育福島0079号(1983年(S58)02月)-039page

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随想

 

回想譜

小 沼   堯

 

招待状を頂いたが、その一つ一つは、私にとって回想へのかけ橋でもある。

 

先日、某教え子から結婚招待状が舞い込んだ。メインスピーチを頼むとあった。十余年前担任最後の中学校時代の教え子でもあり、想い出もひとしおのものがある。今年度は、随分招待状を頂いたが、その一つ一つは、私にとって回想へのかけ橋でもある。

二十代三十代の担任時代、教え子たちと夢中になっては、授業以外のいろいろな活動が、今更ながら、新幹線の如き速さで脳裏をかすめる。

歌集を出したり、三分間スピーチを続けた時代、対外試合に情熱を燃やした時代、級別テストや読書活動に精力を集中させた時代などふれ合いの四季折々の情景が、かけめぐっていく。

テレビなどまだ普及していなかった当時の教え子たちは、生徒としての純粋素朴な感動性と共鳴性を備えていたように思われる。

現在は、時代の進展と社会状勢の変ぼうによって、生徒の気質も異なってきている。世代の新しい感覚と古い感覚とのぶつかり合いの中で指導するという、教育的には、まことに難しい時代であると思われる。それだけに、対応する側には、それぞれの持ち味で、今までと異なる発想や感覚の吸収とそれにともなう方法を配慮する必要があろうし、腰をかがめ、眼の高さを同じにして、適切な気配りをしながら、共鳴を喚起する工夫が、一層望まれているのではなかろうか。

今まで担任として、手がけてきた事柄は、恩師の受け売りが多いように思う。在京時代の小・中学校を通して、西沢、豊田、佐々木の三先生は忘れることはできないし、担任していただいたことに最高の誇りと感謝を持ち続けている。三先生とも、寡黙ではあったが活発。よくわかる授業はもちろん、話される一言一言が、子供心にも間口の広さと奥深さを感じさせる先生たちであった。

一日四、五時間の猛勉と読書を義務づける反面、今はやりのふれ合い活動などは、四十年以上も前からもろもろに経験させられた。詩集・文集づくり、サイクリング、山登り、自然に親しむ集い、討論会など、一体となって活動していただいた厳しくもまた楽しかった過去が、時折りの寸言とともに、今だに鮮明に浮かんでくる。もっとも当時、一クラス六十五名の七クラスの学年編制、一・二・三組は男子、四・五・六組は女子、七組は虚弱児童という男女同席ではない関係から、指導し易かったのかも知れないが…。

昼休み時、車座になって将来の志望などあれこれ話し合っている合い間に「偉い人の前であがらない方法を教えようか、坂本竜馬が、殿様の前でいつも落ち着いていられたのは、殿様も同じ人間、厠に行く姿を想像して話していたからだそうだ」「世の中には悪い人間はいないんだ。可哀想な人がいるだけだ」「先生といらのは、あまり優秀でない方がいいんだ。上も下もよく見えるからね」とかボソボソと言われた一言一言が、時間と空間を飛び越えて、表情豊かに脳裏に映じてくる。

人生の生き方に背くことについての叱り方は厳しかったが、温かかった。それぞれに合った逸話を用いて、訓戒される方であった。そして、激励と賞めることを欠かさなかった。進学した者も、しなかった者も、卒業して行った今、私同様に、みな同じ感懐をもって、先生に感謝しているのではあるまいか。何かの度に先生方の姿を想い出すのは、今だに心の支えになって、その教えが生きているのかも知れない。

招待状のお蔭で久し振りの回想にふけった。しかし、スピーチすることを考えると一つにまとめて表現することは、なかなか至難である。「不言実行・沈思黙考・質実剛健」の強調される気風や時代に育ったせいなのかも知れない。

先年、某校長先生の「稲作民族の気質と行動性」のお話を拝聴したことがある。いつも味のあるうん蓄多い話をされる方である。こんな風に、短かい中にも示唆に富み、感銘を与える話をしたいものだと思うが、果たして私にその素質があるかどうか…。

池の端にたたずみ、群れ泳ぐ鯉に、どの話を柱だてにしようか、と問いかけているころ、この「随想」の依頼が舞い込んできたのである。これまた難題。仕事以外はみんな、私にとって難題なのである。

(会津若松市立門田小学校教頭)

 

 

 


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