教育福島0079号(1983年(S58)02月)-044page

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随想

 

子の心親知らず

遠藤徹郎

 

邪気さをひとつも失っていない彼女は三十一歳、聞けば三児の母親である。

 

正月の二日、女子の前厄除けの同級会に招待された。男女七十人ほど集う中から、突然、小柄なA子がバッタのごとくとびついてきて足をバタバタさせながら、「小学生のころ、よくこうして先生にぶらさがったの。私誰だかわかる」と、なつかしそうに話しかけてきた。もう十九年も前の教え子である。あのころの無邪気さをひとつも失っていない彼女は三十一歳、聞けば三児の母親である。

その彼女の子育て論はただひとつ、がんばっている時は「それもう一息」と、かけ声をかけてやり、よくがんばった時には精一杯抱きしめてやって、家族みんなでほめ合うことだという。彼女の顔からこぼれんばかりの笑みを見て、ほのぼのとした日々の家庭生活が想像され、この彼女がよくぞここまでと、思わずこみ上げてくるものをかみしめた。

最近特に家庭内暴力、校内暴力、登校拒否そして性非行、更に神経症、心身症、自殺から子殺しといった活字が痛いほどに目につく。今やまさに子供受難の時である。その原因として、過保護、過干渉、放任、父親不在など耳が痛くなるほど聞かされる言葉ばかりが上げられる。今や親にとっても、惨めなほどに育児姿勢を問われている時でもある。昔の親は一種の勘のようなもので立派に子供を育てたというが、今の親は、昔の親が身につけていたものを失ってしまったのだろうか。否、核家族世帯で、年寄りから体験に基づいた育児論を聞く機会がないこと、隣近所の付き合いが少なくなって、生きた情報交換ができにくいこと、更に親自身の兄弟数が少なくて、弟や妹と一緒に遊んだ経験がないこと、勉強重視で、親自身が子供のころ十分に遊んでいないこと……たどの要因がストレートに子供に影響を与えているのではないだろうか。

現代っ子のイメージは、親の子育ての勘を狂わせ、自信を喪失させ、親子の断絶を生んだように思う。子供の本質はいつの時代も変わるものではないと思う。子供の成長発達の渦程には原則として一定のルールがあるはずである。子供の本質、ルールにそって、親の在り方を考えたいものだ。

ある調査によると、半数以上の母親が「家庭の中心は子供」とし、「家庭で子供の人格を認めている」のは七割程度、子供の家庭教育に関する勉強は七割、が「特にしていない」という結果になったという。また、別の調査では家庭内のコミュニケーションについて「やや不満」「不満」と答えた中学生の上げた理由として、「親の一方的な押しつけが多い」が群を抜いて多かったという。これでは「親の心、子知らず」ではなく、「子の心、親知らず」ではないか。それをじっと耐えている子供の姿が目に浮かんできて、何ともかわいそうな気持ちになってくる。

A子は、「私の心の中にやすらぎができると、おかしいことに子供の態度にも明るさがでるのよ」といった。この言葉を聞いて思わず「ぐっ」とつまってしまった。彼女等を担任していたころ、私に、この余裕があっただろうか。とにかくひとつでも多くと詰め込み教育一本しか考えられなかった私にとって、教えられた一言である。「子供の心、教師知らず」である。

今の親にとって学習する機会はあっても、その学習したことを子育ての中に生かし理想的な子供を育てる余裕まであるのだろうか。実際はどんな子供に育てようとするのかさえつかめないまま子育てしている親が大半ではないだろうか。

何もできない自分が恥ずかしいので子供に塾通いさせているというK子、たくましい子供にするため三歳になったら親子で剣道を始めるというY男、子供の好きなことを存分にさせたいが大学だけは、出してやりたいというT男、素直な子供に育ってくれるだけでいいというM子……みんな子育ての方針は持っている。ただ、「子の心、親知らず」式の子育てにならぬよう願いたい毛のである。

社会教育に携わり二年、久しぶりに会った教え子たちとの語らいもいっか愚痴めいた説教になっていく。これはいかん。教師づらはいかん。と思いながらも、いつしか酔いが心地よく体中に広がってきた。別れることはつらいけど……今夜も星が降るようだ……。

(県南教育事務所社会教育主事・表郷村派遣)

 

 

 


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