教育福島0079号(1983年(S58)02月)-045page

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こぼればなし

 

あとがきにかえて

 

窓越しのやわらかな陽ざしが、鉢の梅の堅い蕾に生気を与えた。梅は、清楚であることが気品に結びつけられ、早春にさきがけて花をつけるので、昔から詩歌に詠まれ、また、「めでたい」ことの代名詞的なものとしてよく引用されるが、古来、「花は桜木人は武士」といわれたわが国にあって、今日のように人口に膾灸されるようになったのは、いつのころからであっただろうか。古代に中国から渡来したのであろうが、「古事記」「日本書紀」には、梅に関する記述がないというから、少なくとも八世紀初頭には、まだ到来していなかったと考えていいようだ。そこで、手元の書籍をあさってみると、天平二年(七三〇年)正月十三日に、大宰師大伴旅人の家で梅見の宴を開き、歌に詠んだことが「万葉集」(巻五)に発見される。この時詠まれた歌が三十二首であったことは、万葉研究家でなくても周知のことであるが、また、万葉全体では、百十八首歌われていることから、天平二年ころには、すでに梅は、大陸風の文人趣味として、あるいは純粋な美的鑑賞の対象として、貴族間にもてはやされ、生活の一部になっていたと理解していいようだ。そして、これら貴族の嗅覚が、梅の本性の中に、色よりも香を発見するには、さして時間はかからなかったであろう。

「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」と詠んだのは、凡河内躬恒であったが(古今集・四十一)、このように闇の夜でも「暗香浮動」して、まさしく梅そのものの精である香が、見事に異国趣味の古代貴族によって高い美意識にまで昇華されたと考えるのは過言であろうか。

梅はまた、その種類の多いことでも有名で、原種的なものとしての「野梅」をはじめ、「臥龍梅」「青龍梅」「残雪梅」「残月梅」など多くの変種が見られるが、それぞれの梅の形状に冠した名称が、実に貴族好みの風雅なものに統一されているのも面白い。もっとも、野生の状態を保つ原種は、宮崎県、大分県の山間にわずかに残っているにすぎないという。牧野富太郎博士の「植物記」によれば、栽培品種は四百種をこえるというが、分類上「小梅」「豊後梅」「緑咢梅」などと分けて考えるのが普通。こうなると「実成り」中心の分類のようで、そのなれのはてが「梅干し」に結びつけられてしまってはかなわない。梅について興味をもったのは、編集子の前任校の校章が「梅花」であったためだが、そのころ、例の必修クラブの時間に、梅の園芸上の区分を生徒と一緒に調べたことがあった。こちらの方は、「野梅性」「紅梅性」「豊後性」「杏性」「枝垂性」等々、ことばの上からも「すっぱさ」は感じられなくて、しかも、名前も「鶯宿」「東雲」「高砂」「見驚」「水心鏡」「置霜」「司」……ということになると夢があって楽しい気分になる。梅はやはり、風流や情緒の原典としての梅であってほしいと思う。ところで、梅の名所は昔から水戸の借楽園、青梅の吉野梅林、京都の北野天満宮、奈良の月が瀬、和歌山の南部、熱海の梅林、横浜の大倉山……と相場がきまっているが、天満宮はまた、学問の神菅原道真が天満天神としてまつられているので有名。道真といえば、右大臣に昇進するも左大臣藤原時平のざん言により、九州大宰府に左遷され、死後太政大臣を贈られ「学問の神天満天神」としてあがめられたわけだが、学問の神様ということで、この時期になると全国の天神様は合格祈願の参拝者で大忙しになるという。備え十分の神だのみであれば「梅一輪一輪ほどの暖かさ」(嵐雪)となって朗報がもたらされるにちがいない。だが、梅の芳香にうっとりしていると自己を失うことになりかねない。ウメはトゲのあるバラ科であることをお忘れなく。

勇気こそ地の塩なれや梅真白  中村草田男

 

 

 

 

 


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