教育福島0080号(1983年(S58)04月)-027page

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随想

 

ふりかえれば

 

長郷智子

 

長郷智子

 

昭和五十二年に開園した本園も、今年ではや七年目を迎える。私にとって幼稚園の勤務は初めてのことであり、開園にあたっては、全エネルギーを集中させて、ようやくこぎつけたような次第である。そのせいか、格別の愛着、か、この園には感じられる。今では、もう私の生活の中で大きな比重を占め精神的な面でもこの園に支えられている部分が少なくない。

おもえば、昭和五十二年の四月一日に辞令を受けたが、職員は保母経験五年の私と新任教諭、園長は、小学校長と兼務というスタートであった。入園、式は、五日と目前に迫り、準備といっても、机どころか鉛筆さえも揃わず気はあせるばかりであった。その上、同時に二つの園が開園されたため、労力が倍増されるということになってしまい、深く考えている余裕など全くなく、ひたすら行動へと駆けださなければならなかった。その中で何よりも心の負担は、専門の指導を受ける人がいなかったことである。参考にするものがなく、何もないところがらの出発が、こんなにも大変なことかと痛切に感じさせられた。すべて自分の力で、運営をすすめなければならないことは、能力不足の私には重荷であった。

両園かけもちで右往左往しながら迎えた入園式。しかし、なぜか、この式当日については、記憶していないのである。大切なこの日を写真の中でのみ思いだされるだけとは、何ということであろう。煩雑さの中に、入園式が埋もれてしまったのかもしれない。

当時の家庭通信を開いてみると、こんな文が記されてある。

「ここに第一歩を踏み出し、生まれたばかりの幼稚園です。揃っているのは、子どもたちと教師ただそれだけです。でもこれで十分です。若さと情熱と何よりも身につけたばかりの新幼児教育で指導にあたっていきます」と。

今、多少気恥ずかしい思いもするが我ながらとても新鮮に受けとれる。

いよいよ保育が開始されると、参考資料収集のため、遠く各園に出かけたり、小学校諸先生より指導を受けたりして見よう見まねの指導内容作成であった、早く他園に追いつかなければ、子どもたちも、父兄のかたにも申し分けないと連日、残業が続いた。それに不満をもつ職員もなく、むしろがんばっていこうという意気込みであった。考えてみれば、このころが、情熱に満ちた貴重な日々であったと、なつかしく思われる。

 

それから六年を経て、ふと立ち止まってみると、精一杯取りくんできたという満足感と充実感はあるのだけれども、なにかしら一抹の不安、こころもとない思いが、心をよぎるのである。

何か大切なものを忘れてきたのではないだろうか。

運営方法はこれでよかったのだろうか。

確固とした土台を築けたのだろうかという思いにとらわれる。

史 に、なにを残し得たのだろうかという問いに、胸を張って答えることができるものがあるだろうか。

どうにか軌道にのせてきた、それだけで精一杯であったような気がする。

そして、何よりも今、教務係という立場になり子どもたちとの交流が疎遠になってしまったことは、教師として深く反省させられる。教務の仕事をしているということに対する甘えがでて積極的な姿勢が、いつの間にか欠如してきたようである。もっと、もっと本気で子どもたちと接しなければ子どものことも理解できず、指導計画など立案できるはずがあろうか。全く我が身を叱責せねばならないことだらけである。

いろいろ考えてみると、今後は、指導内容の充実、指導技術の向上など、専門性の高揚を図り、一歩一歩着実に歩みをすすめていきたいと思う。……開園当時の子らも、もう六年生、目を見張るばかりに成長してゆく子どもたちを前に、たゆまず努力を続ける教師をめざして、際限のないこの教育の道へ、再スタートしよう。……

(北会津村立川南幼稚園教諭)

 

 

 


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