教育福島0081号(1983年(S58)06月)-041page
こぼればなし
あとがきにかえて
芭蕪にとって、「奥の細道」は自らの旅を哲学する境地で続けられた行脚であったらしい。芭蕉の人生は、旅の中で醸成され、その純度が高められていくわけだが、それにしても人生わずか五十年の時代にあって、四十一歳にして、はじめての旅に出立している。(貞享元年「野ざらし紀行」)もっとも、これは記録として残された旅であって、それ以前にも旅をしなかったわけではない。主人の藤堂良忠(蝉吟)の遺骨を高野山に奉納した旅、青雲の志をいだいての江戸への旅、芭蕉庵の類焼による甲斐の国へ脱出した天和二年の旅などである。しかし、芭蕉にとって人生の転機的な意義をもつと思われるこれらの旅についての記録は、なぜか残されていない。
卯の花と花いばらの白色五弁を雪にみたてて白河の関をこえ、阿武隈川を渡り、影沼(鏡沼)を経て須賀川へ。芭蕉が乍單齋相良伊左衛門を尋ねたのが旧暦四月二十二日。三月二十七日に「奥の細道」への一歩をふみだしてから、「前途三千里の思ひ胸にふさがり」ての旅である。四月二十二日は、手元の宝暦によると今年は六月三日にあたる。青葉の目に泌みる旅の季節であった。芭蕉はここで、二十八日までの七日間足をとどめている。乍單齋は、別に号して等躬、相良は相楽とも。須賀川の駅長で、芭蕉とは旧交の人であった。芭蕉は等躬へのあいさつがわりに、「風流の初めや奥の田植うた」の一句をものにするわけだが、因みに、この時の脇句は、「いちごを折ってわがまうけ草」と等躬が和したものであった。もともと、この句における「風流」と「初めや」の解釈上の見解には論のあるところであるか、それは別の機会にゆずるとして、今月の表紙は、この早乙女姿。米倉兌氏の筆を伝って、風流の余韻が田植うたに凝縮されて聞こえてくるようだ。時は六月のはじめ、それは、万緑の中での一つの風物詩でもある。
直線的な陽ざしが、みずみずしい緑の中に吸いこまれていく。むせかえるような若葉、青葉の匂いの中で、柔らかさと優美さをとおりこして、季節はいま、原色の強烈な装いを始めた。それは、濃厚と華麗の衣服をかなぐりすてて、単純な緑のワンピースに着がえたとしごろの女性すら連想させる。そしてまた、緑はスマートな清涼感をともなって、ダイナミックな生命感を恵んでくれる。
この季節になると、きまって思いおこすことばがある。高村光太郎と草野心平の詩の一節だが、詩人の目をとおした自然へのかかわりあいが、実に印象的だ。「桜若葉の間にあるのは、切っても切れない むかしなじみの空だ」(あどけない話)と光太郎は季節をとらえ、「鰍葉は光りともつれあひ。くすぐりあひ。陽がかげると不思議がつてきき耳をたて。そよ風がふけば。枝々は我慢が利かずにざわめきたち。」(樹木一と心平はうたった。
この率直な感動を、子供の心の中に響かせてやりたいと思う。(ひ)