教育福島0082号(1983年(S58)07月)-008page
交流教育の推進(1)
特集
はじめに
盲院では「紙に凸の文字を印し、地図等は針にて紙に孔を穿ち海陸の形ちを画き、指端にて之を触れしむ……。」また、痴児院(精神薄弱児学校)では「書は皆大文字を用ゆ。語を教ゆるにも絵に由て解さしむ。例えば、犬と言ふ字を教ゆるには、犬の絵を画き……。」
これは、福沢諭吉が「西洋事情」の中で百二十余年前のヨーロッパ各国の学校制度を紹介した一節である。
翻って、今、盲学校や聾学校では子供たちがどんなふうにして学んでいるか、養護学校ではどんな障害の子供たちがどのような学習をしているのか、広く一般の人たちで「西洋事情」における福沢の認識・理解の水準を越える者がどれほどの割合を占めるものだろうか。「西洋事情」が出版されて百年余を経た今日、なおこれが新鮮にうつるとするならば心細いかぎりである。
一 障害とハンディキャップの区別
「国際障害者年行動計画」 (一九七九年)を見ると、その中に、「個人の特質である『身体的・精神的不全(impairment)』と、それによって引き起こされる機能的な支障である『障害(能力不全disability)』、および、能力不全の社会的な結果である『不利(handicap)』の間には区別がある。」という一項がある。そして、「障害はある個人とその環境との関係において生ずるものであると考えるのが建設的な解決法であるという見方が定着しつつあるが、まず、『能力不全』を『不利』にしている社会的条件を見すえなければならない」という指摘がつづくのである。
われわれは、不利(handicap)を障害(disability)に付随するものと考えて、障害者が遭遇する生活上の困難を、ともすると、その障害ゆえにしかたのないことだとして見過ごしてきたようである。
障害者が支障なく生活できるようにするための各種条件の整備への努力が欠けていたのもぞうした認識によるものと考えられる。
もし、「障害」を身体的・精神的不全の結果としてだけとらえるのではなく、障害者とそれをとりまく環境条件との関係で理解するなら、健常者の側からは、何よりも障害者の生活環境条件を改善する行動を起こす必要性に気づくはずである。
なお、ここでいう障害者の生活環境条件の改善とは駅のホームに点字ブロックをうめこんだり、石段の部分に車いす用のスロープを設ける等々の物的条件の改善や整備だけでこと足れりとすることだけではない。学校・家庭はもとより、地域社会の人的な側面の検討を忘れてはならない。
二 障害者に対する誤解・偏見
(一)障害児との交流前
・お友達になってあげたい。
・遊びたいけどきたないからいや。
・かわいそうだと思った。
(二)障害児との交流後
・一緒に七夕かざりを作ってたのしかった。
・養護学校のSさんが、きらいでした。でも、手をつないでいたら友達になりました。
・別れるときさびしかった。
これは、ある小学校の二年生が、精神薄弱養護学校と二回の交流を行った前と後の感想をまとめた資料からの抜き書きである。
年齢的に小さいせいか、障害児について知らないことが幸いしているものと思われる。きたないからいや、かわいそうといったことばは、単に外観的な印象だけからの判断によるものだろう。こうしたところにも、偏見というものが「あることがらについて何の知識もないところには生じない」ということがうかがえる。偏見がゆるがしがたく根づく経緯を考えてみよう。